JOGIO

□呪う
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奇譚曲~呪う
ブローノ・ブチャラティの場合...




「酷い臭いだ」

キチネットの隅から漏れる青白い炎を見遣ったアバッキオは掌で澱んだ空気を散らした。薄ら輪郭を見せる人影は小鍋を躍起になって掻き回している。
エマは唇を吊り上げながら呪文が如き呟いていた。
真横に近付いたアバッキオにさえ意識が行かないぐらいに。

ぬっ、と飛び出した生っ白い腕が伸びアバッキオが身構えた。が、その白魚の様な指先は古ぼけた古書の頁をゆうたり捲ったのだった。

「おい、エマ」

気味の悪い空気を変えるべく、窓に取り付けてある分厚い暗幕に視線を流す。締め切った部屋はまるで蒸し風呂と化していた。

「あら厭よ!余計な事しないで頂戴ねアバッキオ。此の調合はね、とおっても繊細なんですからねアバッキオ。焦って煮詰めたりなんかしたら、わたくしだって何が起こるか解りゃしないのよ?でも此だけは云えるわ、古から伝わる秘薬は呪えば呪う程に効果が強まるの!あんの嘘つきなブチャラティの唇へチョイト触れるだけで、たちまち目ん玉ひん剥いて血ヘド吐くんだから!アヒャヒャ、ざまぁみろ!傑作よねアバッキオ。」

エマは、焦りは禁物だ。
そう言ったにも関わらず、木ベラを興奮のまま掻き回している。飛び散った液体が瑞々しく咲いていた薔薇の花弁を灰のように変えてしまう。
彼女が何を企みブチャラティを陥れたいのかは知れん。しかしアバッキオにとっては興味の欠片も孕まない呪いの儀式だ。

「何でもいいが...上手くいくといいな」

「失礼ね!効果抜群、即死必然の秘薬なのよ!疑うなら是非にも試してみなさいねアバッキオ。あら?出来たかしら、フフフフッ」

「恐ろしい女だぜマジに」

「ちょっと早く出ていって頂戴な。今からブチャラティを呼んで、その間にわたくし食事とデザートとを準備するんだから。そうそう忘れちゃ駄目ね、食前のワイングラスの縁に此の薬を塗らなきゃいけないわ、気付かれない程に極々、薄く薄くよ。解った?そら早く帰って頂戴ねアバッキオ。」

一気に捲し立てるエマは秘薬の成功がさぞ嬉しいのか、跳び跳ねんばかりに携帯をかけ始めていた。鋭い視線と対象な歪んだ口角は胎内に巣喰う悪魔でも飼っているのか。


「ごきげんよう、ブチャラティ。わたくしの部屋で食事でもいかが?とびきりのワイン仕入れたのよ、あら!嬉しい。うんうん、準備して待ってるわ!」

全身が粟立つ猫なで声を発したエマは通話を断つと俺を睨み付けた。

「分かった分かった!じゃあな。」

彼女に背を向けた瞬間に乾いた風が全身を撫ぜ去った。

「わたくしったら、すっかり興奮してたわ。何か用でしたの?態々わたくしの部屋に出向いて来るなんて珍しいのねアバッキオ。」

「いや...ブチャラティに用があってな」

それも、もう必要ないだろう...
アンタは救い様がない人だ、
正直で真っ直ぐな瞳は時に恐ろしい、
全く馬鹿な男だよブチャラティ。




***

「君だけに任せるのは気が引ける、俺も手伝うよエマ」

狭いキチネットから平皿を寄せたブチャラティが真後ろに立っていた。何て嫌味な人かしら、それにキチネットへ近付かないで頂戴な。うっかりグラスに触れたら悶え死ぬアンタを眺めらんないじゃないの。そんなの厭よ!厭よ!厭よ!

「お皿だけでよくってよブチャラティ。わたくしがワインを注ぐから座ってて頂戴?そらそら早く」

頬にキスを落としたブチャラティの背中を怨めしく見た。先に秘薬を塗りつけていた左のグラスを自然にブチャラティの前へと置いた。照明の反射を防ぐ為、薄暗い灯りが酷くローマンチィックだと勘違いでもしていなさいな。
テーブルの上でコルクの栓抜きを握っているブチャラティが「ボトルを貸してくれないか?」と伺ってきた。

器用なもんね、綺麗に抜き取って。無駄な動作なくワインを注がれちゃったわ。わたくしが注ぐって云ったじゃないのよ。

「乾杯してくれるか?エマ」

「勿論」

「やけに上機嫌だな、」

「ええ!」

「さっきアバッキオに逢ってな」

アア、今何て?
アバッキオに?
アイツまさか?
わたくしの事を云ったのかしら!何て事を...何て事を...!

「逢っていたのか」

「まさか、わたくしがアバッキオと?」

「まぁいい。乾杯だエマ」

グラスの腹を互いに軽く触れさせて、エマは葡萄色を喉に流し込んだ。そらそら早く飲みなさいブチャラティ。わたくしに醜い姿を存分に晒しなさいな。




「このグラスに口を付けたなら...ブローノ・ブチャラティは君への愛を嘘偽りなく証明できるか?エマ」

「何を、厭ね。変な事を云わないで」

「君の頬から俺を呪ってやる、そんな汗の"味"がしたぜ?」

「気付いてたの。ならお止めなさい、全然愉しくなくってよ?その秘薬はゾッとする程に恐ろしいの、一舐めで...たちまちアナタは血を吹くんだから」

「君の為なら、ホンノ鳥渡だろう?」

エマ。君が望むなら、君が願うなら、君を愛する者としての宿命だと此の聖杯を飲み干そうじゃあないか。
だが、願わずにはいられない。噴き出す血飛沫をエマ、君の右手が絡む聖杯でホンノ僅かで構わないから受け取ってはくれないだろうか、と。
だのに何て顔をしているんだ?君は俺を呼び出し、秘薬で息の根を止めようってのに。泣き出してしまいそうな瞳は何故。企みのタネが暴かれた悔し涙か。

ブチャラティはグラスを引き寄せて、先ずは馨りを愛でた。

「流石、とびきりのワインだな」

「止めて頂戴。もういいわ」

「何故。最期くらい君への愛を証明させてもくれないってのか?」

「わたくしが悪かったわ」

「伝わるまで愛と呼んではいけない」



グラスに注がれた葡萄色は深く、濃い。アルコールが忙しく弾けて小宇宙を魅せる。惑わせた馨りが酔っ払ったパッションに変化する。
グラスをペロリと舐め上げ、ブチャラティは一気に流し込んだ。薄暗い部屋の床に、呪われたワイングラスが真っ赤に染まりながら、転がってゆく。


愛しているなんて、もう今更よ...
わたくしは救い様がない人ね、
正直で真っ直ぐな瞳が時に恐ろしかった、
でも、全く馬鹿な男だわブチャラティ。


END―


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