短編

□追想と蜻蛉
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「……そんなことを考えていたのか?」

「…うん」

一泊の間。妊婦は無理をしていたのか顔色が青白く子どもは慌てていなくなった。

「私が知る限り、彼女は…可哀想な女性だった」

聞いたことのないくらい深く優しい声音を出したななしは前を向いて、しっかりと僕の隣を歩いていた。

「彼女は…周りに迷惑をかけないよう、色んな物を一人で抱え込もうとしていた。
…それくらい彼女は追い詰められて…分かって欲しい、トム。彼女は君を捨てた訳ではない」

「っ!じゃあなんで、僕は孤児院で産まれたんだ!」

まるで、僕を置いて行った母を庇うようなななしに苛立って声を張り上げた。…でも、分かってるんだ。無意味だってことくらい、

「…ねぇ、答えてよ…
どうして、母さんは僕を産んだんだ…―――」

「……」

どうしようもないんだってことくらい、分かってる。


自分よりも大きな手を握り締めることしか出来ない僕にななしは何を思ったのか。

黙って歩いていたななしは突然、思いがけない話題をふってきた。

「トム。君は…蜻蛉を知っているか?」

「…カゲロウ?…虫、だろ」


いつの間にか手を引いて先を歩いていたななしはいつものように帽子の所為で表情を読み取れなかった。
「…蜻蛉と言う虫は、産まれてから二、三日で死ぬそうだ。
ならばどうして産まれてきたのかと昔、疑問に思ってた時期があってね…」

僕は黙ったまま覗き込むようにななしの顔を見た。それでも、ななしの表情は読み取れなかった。

「とうとう我慢出来なくなったある日、私は蜻蛉の雌を捕まえた。そして拡大鏡を使って見てみた。
説明によると、口は完全に退化していて食べることが出来ず、切り裂いた胃袋に入っているのは空気ばかり…
見ると、本当にその通りなんだ。からっぽだった。
しかしね、卵だけはぎっしりと腹の中に詰まっていた。ほっそりとした胸まで、及んでいた…」

「…………」

僕は何も言えずただ、ななしの瞳から感情を読み取ろうと見上げることしか出来なかなった。


「まるで、生と死の繰り返す悲みが喉もとまでこみ上げているかのようだった。
そして私はその白く、淡く、つめたく輝く卵に目を瞑った…そんなことがあった数日後だな。私の初めて愛した人が一人で子どもを産んで亡くなっていたと聞かされたのは、」

寒い寒い冬の日。

それは母が亡くなった日。

僕が産まれた日。

ななしと出会った日。

そして今、ななしと手を繋いでいる日…
どれも同じくらい冷たいと思う。


でも、今日と言う日はそう思うと同時に痛みのように切なく脳裏に焼き付いたものがあった。



――ほっそりとした母の胸まで、息苦しく敷き詰めていた、白い、僕の肉体――


振り返らなくても分かっていた。
当然、もう、あの妊婦はいない…――








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