W-姫と神官
□大切なのに…
2ページ/3ページ
「何か御用ですか。」
一つの宿の扉から人影がのぞいている。
その影は、闇に溶け込み同化していた。わずかに揺らめいたおかげでようやく気づけたほど、その影は静寂に身を投じていたのである。
「ふふ、バレちゃった。」
影がまた一段と揺らめいてから、その方向から若い女の声が妖艶に響く。
「ねえお兄さん、旅の人?見慣れない服装ね、どこの国から来たの?」
いきなり自分に関しての情報を尋ねられる。クリフトは最初、バルザックの残党が絡んだ刺客かと思い背中に負った大剣の柄の感触を確かめたが、どうやらそれとは違うらしい。
柄に触れた手をさげてから、女の影の方へ体を向ける。
「はい、旅をしています。そうですね、私が暮らしていた国はこのモンバーバラからは大分遠い所にあります。」
「へえ、そうなんだ。」
自分から聞いておいてさも興味なさげな相槌を打つ女。
クリフトは奇妙に感じつつも、「おやすみなさい。」と挨拶をして頭を下げてからその場を足早に立ち去ろうとした。
影を視界から外した途端、背中からわずかながら確かな力で引っ張られる。
自分のコートを女がひっぱていたのだ。
「何か御用ですか?」
先ほどと同じ台詞で、今度は少し苛立ちをにおわせながら繰り返し問う。
「お兄さんさぁ、こんな夜遅くにわざわざ宿から出かけるなんて…行き先は酒場でしょ?」
「はぁ…」
わざわざも何も、アリーナが待っていてくれているのだ。早い所この妖しい女を振り切って彼女のもとへ行きたいところなのだが、優しい彼がそんな真似をできるはずもなく、律儀に返事をする。
「いいのよ、そんな手間とらなくたって。」
「はい?」
首を傾げてから、無意識に半歩下がって女と距離をとる。
「相手ならあたしがさせて。」
「は?!」
素っ頓狂な声をクリフトが出してから、女は片方の肩ひもをわざとらしくずらしてみせる。
そこで女の言う“相手”の意味を察したクリフトは慌てて二、三歩さらに後ずさり首を横に振った。
「お兄さん素敵なんだもん。酒場に行ったらすぐ他の子にとられちゃうわ。」
拒否の言葉をすぐに出せなかったクリフトの様子を、女は照れていると都合よく解釈して微笑んだ。
それからクリフトの都合なぞかまわないとでもいうように彼が後ずさって空いた距離を埋めるように、女が歩み寄ってくる。
「私はそのような…!」
「…いつもならお金もらうんだけど、お兄さんとびきり素敵だからそんなのいいわ。」
「いえそうじゃなくてですね!」
「だって私がさびしいんだもん。今夜は一人でいたくないの。」
それをこっちが知ったことか!!
…と胸中で叫び声をあげてから、クリフトはまた首を横に振る。
彼の真面目な性格上、寄ってくる女を置き去りにして逃げ去ることも叶わず、かといって不器用な性分のため、うまく女をたしなめたりハッキリと拒絶したりすることもできない。
しかし、そんなジレンマに蹴りをつけなくてはならない。
何より大切で、自分の最愛―アリーナがこんな状況を目の当たりにしたらどう思う事か。
そこまで考えが及んでから、クリフトは凛々しく端正な顔を、険しい表情に変える。
大きく息を吸い込んで、ハッキリと拒否の意を告げようとした。
彼が口を開いた途端、
「やっぱり私なんか…!!」
女が突然泣き崩れだすではないか。
「私なんてやっぱり…いらないんだわ…!!」
「いらないだなどと…」
「私なんて生きていたってしょうがないのよっ…!」
「そ、そんなこと言わないでください、神は全ての人を等しく…」
職業病とでもいえばいいのだろうか、神官のクリフトにとって、生きることに疑問を抱くこの女性を放ってはおかなかった。
「だって、だって、あの人はあたしを捨てたわ…去年の今日……結婚の約束だってした…一生を誓い合ったのに…!」
「それはあなたのせいではないのでしょう?」
「あの人は浮気をしたの……それって、あたしに魅力がなかったからでしょう!!」
感情をむき出しに泣きだす女に、クリフトは辺りは沈黙にふける夜中の宿屋であることを思い出した。
「あの…他の方は眠っていられるので…」
「……お兄さん、もしかして神官さん?」
「はい」
「ねえそれじゃ…私の懺悔を聞いてほしいの……」
夜を共にしてほしいとねだった時とすっかり様子が違うことに安心したのもあって、クリフトは朗らかに微笑んだ。
「モンバーバラの宿屋に巣くう美男狙いの美人蜘蛛?なんだそりゃ。」
所変わって、クリフトの帰りを待つアリーナがいる酒場。
相変わらずの喧騒の中、ソロのぼんやりした声が響いた。
「あたしとミネアが旅に出てから聞くようになった噂らしいんだけどさ。」
ほろ酔い気分で目をとろんとさせたマーニャが、グラスの氷をカラカラと鳴らしながら口を開いた。
「すんごい美人の若い女がね、モンバーバラの宿に泊まる客の中で好みの若い男にベッドを共にしようって誘ってくるらしいの。ま、美人っていってもあたしほどじゃないでしょうけど。」
「すんごい美人の姉ちゃんが、なんでわざわざ一夜限りなんてことするんだろうな?ちゃんとした恋人見つけりゃいいのに。」
それにたかが噂話だろう、とソロは顔をしかめた。
「なんでも性格がかなり歪んでる女みたいでね、好みの良い男が、自分と一夜を過ごしたことで破滅していくのを見るのがたまらなく快感なんですって。」
「歪んでるというか、悪女だなそりゃ。」
「一夜限りの癖に自分の虜にさせちゃうみたいよー?確かに良い男なら恋人がいることの方が多いでしょうし、相手に選ばれた男にしてみりゃいい迷惑よね。」
「…ぞっとするな。」
噂話だろう、という意識があっても、男の立場を思えば身を竦みたくなるような話だ。
「だからあんたも気をつけなさいよね!ソロって結構良い男だしぃ。」
「そりゃどうも。」
そんなおぞましい話を聞かされてから良い男、と褒められても背筋が冷えるだけである。
「あれ、そういえばクリフト随分遅くないか?」
アリーナが相槌も打たず、押し黙っていることに気がついて時計を見た。
「ブライを運ぶのに二十分もかかるもんなのかしらね?」
マーニャも首を傾げる。そうしてから、表情を渋くした。
「…まさか。」
「マーニャ?」
アリーナがそこでマーニャの異常な様子に気を留めて声をあげる。
「…クリフトもいる時にこの話しといた方がよかったかも…。」
「そんなっ!!それじゃクリフト、その蜘蛛女っていうのに…!」
悲鳴を上げるのと同時にアリーナが机を叩いて立ち上がる。
「で、でも、噂だろ?なぁ?」
アリーナをなだめようとソロがマーニャを見やる。
マーニャはすっかり酔いが覚めたかのように、深刻な表情をしていた。
「そりゃ、あたしが実際にその女を見てないからなんとも言えないけど…あたし達が働いていたオーナーや常連客から聞いたんだもの…ただの噂とも思えないわ。」
「でもあのクリフトが…」
行きずりの女を相手にするようには思えない、というソロの言葉を聞き終えぬうちに、アリーナは酒場を飛び出していった。
「…追わないの?」
心配そうにおろおろとしているソロを見て、マーニャが首を傾げる。
「いや、オレがいてもお邪魔虫かなって…」
「それもそうね。何かトラブルになってもあの子の強さがあればなんてことないでしょうし」
「いや、そっちもだけど」
「何?」
「いや、なんでもない。」
「つまんない返事ね。」
はっきりと言葉にしないソロに悪態をついてから、マーニャはまた覚めた酔いを戻そうと強めの酒が入ったグラスに手を伸ばした。
「そういうきっかけって、案外突然くるもんだからな。例えば今日みたいに…」
そっと零れたソロの呟きも、はっきりとした音にはならず、酒場の喧騒の中に溶けていくだけだった。
宿屋の一室。
マーニャが言った、噂の美人蜘蛛の巣くう場所。
そこにこだまするのは、熱い吐息……ではなく、女の呆れたため息だった。
「…ここまで真面目だと、萎えてくるわ…」
女の途方にくれた声に疲労の色が混じっている。
それもそのはず、男を口説き落とすために哀れな女性を演じただけのつもりが、その青年はかれこれ十分以上、聖書を片手に人生の素晴らしさたるやを語っているのである。
「…というわけなんです。さぁ、そんな悲しいことはもう言わず、明日を見て生きてください!」
聖書を閉じて、クリフトが立ち上がり微笑む。
ようやっとご教授が終わったかと思い、女はほうとため息をついた。
そうして気を取り直そうとして、時計を見てから慌てて部屋を出ようとするクリフトに、背中からもたれかかるように抱きついた。
クリフトは、また女が声をかけてきた時と同じ妖艶な雰囲気を纏いだしているのに気付いた。
「あの…」
これ以上アリーナを待たすわけにはいかない。
というよりも、これ以上この女と同じ空間にいたくない。
活き活きと語っていた時とは打って変わって、苦い表情で顔だけ振り向いて女に牽制の声をかける。
女は縋りつくように、男心をくすぐることを意識した弱さで、クリフトの服を握りしめた。
「素敵な人…あたしに明日を生きるためのことを教えてくれた…」
「まあ…それが私の仕事ですから」
なんともつれない答え。女はまた見えないところで悔しそうに顔をしかめてから、また口説き落とすためにと口を開き身体を寄せようとする。
そんな女の様子を察したクリフトは、強い力で一度、女を振り払った。
そんなクリフトに驚いた女は、目を丸くする。
「私には、大切な方がいるんです。裏切るつもりなど毛頭ありませんが、この場にいるだけでその人を不安にさせることになります。ですから、私はこれで失礼させていただきます。」
女にとってこれほど好条件の男がいただろうか。容姿の好みはもちろんのこと、誠実な性格、おまけに恋人がいるときた。
好みの男を堕落させることを喜びとしてきた女は、この青年を諦めきれずにいた。
無理に彼の首に腕をまわし抱きつこうとした時、突然入り込んできた冷たい空気が部屋にいた二人を包んだ。
「クリフトっ!!」
突然の接近に、受け止めるしかできなかったクリフト。
ただ女が無理に抱きついている状況だったのだが、扉を開けたアリーナには、その光景は絶望のものとして映った。
「姫様!!」
女の腕が弱まっていた為、たやすく振りほどくことができた。
しかし、そんな僅かな間に関わらず、アリーナの足音はもう階段の方向へと遠ざかっていく所だった。
クリフトは二度と振り返らず―女に抗議の視線を送ることもなく、がむしゃらに遠ざかる足音を追った。
その甲斐あって、階段の途中でその細い腕を捕まえることができた。
この華奢な体が素手で魔物を倒せるだなんて…と考えることも間に合わず、クリフトは必死にアリーナを抱き寄せた。
---