黎明の獅子 -akatsuki no yona-
□黎明の獅子 第一幕
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【 決別の刻 】
胸騒ぎがした。
これまで培ってきた平和な世界にヒビが入ってしまうような……そんな不安が胸を支配している。
どうしてだか居ても立ってもおられなくなり、無我夢中でその場所へと駆けた。
誰もが休息に身を沈める夜とはいえ、静か過ぎる城内。
目的の場所へ近付けば近付くほどに、その奇妙な静けさは深く濃くなっていく気がした。
胸騒ぎどころか、嫌な確信さえ覚えそうで……。
「(なぜ護衛がひとりも居ないんだ……)」
脳裏を過ぎる不安など現実にはあり得るはずもないのに、たどり着いた目的地には在るべき衛兵達の姿が見当たらず、うっすらと開かれた扉を目に映せば寒気を覚えた。
まさか、まさか……と。
「陛下!」
無礼だとか身分だとかを放り投げて、間髪入れずにその扉を開け放つ。
そして眼前に広がった光景に、言葉さえ失ってしまった。
暗い室内でゆらりと動いた二つの影。
ズブリ……と、耳障りな音が外耳を刺激する。
「……へい…………か……?」
この部屋の主の名を呼んだはずなのに、声はまともに出てはくれなかった。
追いつかない思考に息が荒くなり、乾いた呼吸でヒューヒューと喉が鳴る。
ドクドクと鈍く波打つ胸。
呼吸の仕方さえわからなくなってしまった。
「スイ……っぐ……逃げ……───」
こちらに気付いた主は苦痛に目を見開き、それでも必死に手を伸ばして自分に逃げろと告げる。
なにを、バカな……。
「陛下!そんな、ダメです……!陛下っ……陛下…………!!」
ドサリ。
酷く重たい音を響かせて倒れたのは、この国の王。
そしてその目は見開かれたまま、急速に光を失っていく……。
何も知らない子供ではない。
もう遅いと理性ではわかっている。
だけど、どうしても、頭が現実についていけない。
血溜まりの中で体温を失っていく陛下に駆け寄り、必死でその傷を塞ごうと手を伸ばした。
ゴプゴプと嫌な音を立てて流れていく血がその手を真っ赤に染め上げたが、なりふり構っていられるわけもない。
「ダメです……陛下……っ貴方はまだ、死んではいけない……!陛下、陛下!……陛下…………っ!!!!」
「……もう、遅いです」
「……ッ」
心臓の鼓動が止まったのを、手のひらで感じ取る。
『もう遅い』などと自分に告げたのは、どこの大馬鹿者だ……。
暗闇に紛れ顔が見えずとも、けれども声だけでわかってしまう。
聞いたこともない冷えた声色だとしても、こんな状況でも。
ずっと共に過ごしてきた、友人だと信じていた、いつかこの国を支える要になると心から信頼していた……その人は……。
「なぜだスウォン……!」
なぜ、どうして……。
「陛下と同じ血を引くお前がなぜこんなにも愚かなことをしでかした……!」
「……私の前に立ちはだかるとすれば、一番の壁はあなただと思っていました。スイ」
冷静に返されたその言葉。
わかっていた?
こうして相対するのが自分だと、知っていただと……?
「……スウォンッッ」
腰に下がっている剣に手をかける。
今ここでどうしたらいいかなんてわからないのに、このままでいる訳にもいかない。
殺す?
これまでずっと一緒に育ってきた友を?
でもヤツは、この国の王を弑逆した。
許される事ではない、死をもって、償わなくてはならない。
だけど、その彼もまた、王の血を引く者で……。
「(どうすればいい……っ)」
殺せば済むという話ではない。
そもそも、この手でスウォンを殺せる自信もない。
肩を並べた時間が、その思いが、関係が、全うすべき任の邪魔をする。
「……事情を聞かせろ、スウォン。どういった経緯があって陛下を弑逆した。王がお前に何をした?まさか、玉座に目をくらませたとは言うまい」
唸るように問いかければ、スウォンは遠くを見るように陛下を見下ろし、静かに応えた。
「父の……私の、仇ですよ」
暗がりにうっすらと見えた彼の双眸は、何の色も映っていない。
仇……?
彼の父、イル陛下の兄であるユホンは事故死のはずだ。
現にユホンが死んだと話が入った時、自分はイル陛下と共に居たのだから。
これは明らかなでっち上げだ。
「どこの誰に何を吹き込まれたか知らない。だがスウォン、真実が何処にあるかくらい、自分で考えようとは思わなかったのか!」
国王を弑逆しようと考える者は数多といる。
けれどスウォンの父、ユホンはそう考えてはいなかった。
弟であるイル陛下を護ると宣言し、手助ける為に戦地を駆ける様は兄が弟を守るそれそのものだった。
「真実なら、私でも知っています。陛下は父上を暗殺し、戦争を恐れ武器を捨てたが故にこの国を弱らせていました」
「……っ武器を捨てることの何が悪い!刃は刃を呼び、諍いは諍いしか呼ばない!陛下は武器を恐れたのではなく、それを手にした者が死へと進んでいくのを恐れたんだ!」
なんの為に言葉がある?
なんの為に国として建っている?
より多くを求めなければ、国同士とて手を繋ぎ豊かを手にすることは出来るというのに……っ!
「何が……真実なら知っている、だ。一番目の前の嘘さえ暴けなかったお前に、陛下を討つ資格は一縷もなかった!」
「一番目の前の……嘘?」
「教えてやる義理もない。それより……どうして…………なんでっ、お姫さんのことを考えてやれなかったんだよ……!」
「……ッ」
冷たく陰っていたスウォンの目に、ほんのわずかの色が浮かぶ。
ヨナ……イル陛下のひとり娘。
我らが最も守るべき存在……。
スウォンはこちらから目を逸らすと、静かに吐いた。
「少し、時間を取り過ぎましたね……あなたにはここで死んでもらうしか無いようです。スイ……」
「逆にひっ捕らえてくれる。逆賊という大罪……この私が許さない。見くびってくれるな」
「あなたと剣を交えるのは……本当に怖いですよ」
「ほざけ、」
昔から何ひとつだって自分を恐れてなど居なかったくせに。と、そう斬りかかろうとした時だった。
「ちち……うえ……?」というか細い声が聞こえ、咄嗟に動きを止める。
「「!!」」
突如響いたその声に、両者共に扉へと振り向いた。
そこに立っていたのは、紛れもなくこの国の大事な王女……ヨナ姫だった。
「なっ、お姫さん!!」
「……まだ、起きてたんですか、ヨナ姫」
「父上……父上!!」
陛下に駆け寄り、先ほどの自分と同じようにヨナ姫が膝をつく。
傷を見つけ、驚愕に目を丸め、言葉を忘れたかのように呆然とそれを見つめていた。
けれどやがて、錯乱したかのようにこちらを見上げ懸命に叫ぶ。
「スウォン……スイっ早く……っ医務官を……父上がっ!」
「イル陛下はもう、目を開けません……私が殺しました」
「ッッスウォン!!!」
ヨナ姫に向かって何を……!
そう剣を向けようとした時、スウォンはまた常套句のようにヨナ姫にあのセリフをのたまう。
「あなた達は知らない。私が、この日の為に生きてきたことを」
「黙れスウォン!」
「私の父上は事故で死んだと言われています。が、それは違ったんです。イル陛下が王位に就いた後、実兄であるユホンを殺害したのです」
「スウォン!!違う!やめろ!頼む……やめてくれ……っ」
縋るように言葉を続けないでくれと叫んだのに、スウォンはこちらを一度も見ることなくヨナ姫の心を抉っていく。
「ヨナ姫……だから私は、十年前からこの日の為に生きてきた。父上の敵を討ち、父上の遺志を受け継ぐ者として」
冷たいスウォンの目がヨナ姫を捕らえ、射抜いた。
なぜここまで、彼は王を恨むようになったのか……。
ひときわ響きを持ったように、スウォンの次の言葉がヒヤリと耳に張り付く。
「私は、この高華の王となる」
まるでそれが正しいかのように、スウォンが真っ直ぐそう告げた。
けれども頭が混乱する。
……スウォンが、王に?
あんなにも玉座など興味無いという風を見せていたスウォンが?
イル陛下と同じくらい、お人好しであったスウォンが?
これは現実なのか……?
「嘘……嘘よ……」
信じられるわけも無いヨナ姫が、うわ言のようにそう呟いたのを拾う。
瞳に涙を溜めて、絶望に打ちひしがれた表情。
呼吸も荒くなり、ついにぼろぼろとその大きな瞳から雫を溢れさせる。
その姿にひどく胸が痛み、スウォンもまた息を詰めるようにして声を絞り出した。
「なぜ来たのです……ヨナ姫」
今この瞬間にここへ来なければ……と、スウォンの願うようなその声色にハッとする。
時が来れば、スウォンは自分やヨナ姫さえも殺す気なのだと。
奥歯がギシリと唸る。
剣を引きずり、ヨナ姫へと近付こうとするスウォンを前にヨナ姫の盾となる。
そんな自分の背後で、ヨナ姫がまたうわ言のように力なく呟く。
「伝え……たくて……」
聞こえてきた声に足を止め、耳を傾けるスウォン。
彼はもう、ヨナ姫の想いを知らない子供ではない。
「私は……スウォンを忘れることは出来ないと、父上に、伝え……たくて……」
ヨナ姫の言葉にスウォンが息を飲み、氷のようだったその表情には困惑の色が浮び上がった。
大切にしていた宝物が壊れて、泣き出そうとする幼子のような表情。
何かを押し堪える、そんな顔で……。
「(スウォン……お前、ヨナ姫に心を寄せ始めていたのか……?)」
願うように見つめれば、スウォンが口を開き、ヨナ姫に何か告げようとした。
けれどそれと重なるように、扉が大きく開かれる。
「スウォン様!準備、全て整いました」
「おおこれは……」
「陛下が……では、本懐を遂げられたのですね!」
扉から次々と入ってきた兵士達。
これは……陛下を護衛していた連中では……?
「ッッ貴様らぁ……!」
怒りのままにそう叫べば、向こうが自分の姿に気付きどよめいた。
「これは、ラン将軍!?それに、ヨナ姫まで……!」
「なぜここに……!」
「まさか、ラン将軍もこちら側だったのか?」
などと声が聞こえ、怒りに戦慄く。
……こちら側?
よもや逆賊の仲間と思われたのか?
この自分が……?
ヨナ姫を前に黙らない無礼さに、理性の糸がぷちぷちと切れていく。
だが、堪えろ。
ヨナ姫を守りたいなら、今は堪えろ。
「姫に……まさか見られたのですか?ならば、話は早いではないですか。殺しておしまいなさい」
ぎろりと、こちらを見据えたのはいつか見たことのある顔だった。
「ケイシュク参謀……」
どこまでもこの私を煽ってくれる……うつけ者ども……。
「……お前か……今か今かとトグロを巻いていた愚か者は……ッケイシュク!」
「……ラン・スイ殿。これは罪深きことです、あなたが王に手を掛けたなど」
「!!」
彼の言葉に、瞬時に意図を理解する。
ヤツはスウォンの弑逆をなかったことにし、代わりにこの身に全ての罪を着せるつもりなのだと。
そしてヨナ姫についても、この場で始末し口を封じれば逆賊したのはラン・スイとなる。
理由など後から幾らでもでっち上げられるのだ。
死人に口は無いのだから……。
「お姫さん……これから取る無礼を先に謝る。自分は、今貴女に死なれるわけにはいかない……」
「……スイ…………?」
「逃げますよ」
ヨナ姫の手を引き、兵士達とは逆方向に一気に駆け出す。
扉は兵士達に塞がれている。
ここは王室で広いとはいえ、密閉された空間。
逃げ延びるための手段はひとつだった。
「何をする気だ!」と背後で声が上がり、スウォンの息を飲む気配を感じた。
「お姫さん、口をしっかり閉じていてください、飛びます!」
「…………ッ!?!?」
目を白黒とさせるヨナ姫を肩に担ぎ上げ、開かれていた出窓に勢いよく足を掛ける。
チラリと尻目でスウォンを覗き見れば、彼の表情には濃い焦燥の色が浮かんでいた。
それだけでも少し、彼が迷いを感じていることが窺い知れる。
「(……そうか、まだ……人の心を持っているんだな……スウォン)」
心まで鬼にくれてやったわけでは無いようだ。
ならばまだ、ヨナ姫を救う道がある。