黎明の獅子 -akatsuki no yona-
□黎明の獅子 第四幕
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・・・ハク視点・・・
夜、スイに相談したい事があって部屋へ向かったのに、そこにはスイの姿はどこにも無く、嫌な予感が胸を過ぎった。
昼間のムンドクとスイのただならぬ雰囲気を思い出し、すぐさまムンドクの元へと向かった。
辿り着いたその時、スイがちょうどムンドクの部屋から出て来た。
こちらに背を向けて、颯爽と歩いていくスイの表情は凛と澄んでいて、月夜に照らされたそれは酷く美しく見えた。
そして同時に、言いようのない不安がのし掛かって来る。
こんな夜中前に、スイはムンドクと何を話していたのかと。
そしてスイが部屋を出て向かった先は、スイが寝借りしているその部屋ではない、と。
警鐘が頭の奥で鈍く響く。
ムンドクの部屋の戸を開け放ち、ムンドクの顔を見た瞬間には走り出していた。
「待て、ハク!」
という声が聞こえたが、そんな事に構ってられる余裕はない。
部屋で静かに涙を流していたムンドク。
去って行ったスイの背中。
向かっていたのは里の門がある場所だ。
急げ、急げ。
駆け抜けて、またスイの背中を見つけた。
迷う様子も無く、門を抜けて降りて行こうとするその姿。
夜だという事も忘れて、その名を叫んでいた。
「スイッッ!!!」
「!」
呼ばれて振り返ったスイは驚いた顔をしていた。
ついで困り果てた表情に変わり、次第に笑った。
「どうしたの? こんな夜に散歩?」
いつもの飄々とした様子で笑うスイに、言葉が詰まる。
どこへ行こうとした? とか。
それはコッチのセリフだ。とか。
どうして・・・・・・そんな顔をしているのか、と。
それらは言葉にならずに空気に飲まれるだけで、上手く喋れなくて舌打ちを落とす。
「ちょ、舌打ち!? ちょっと眠れないから散歩でもしに行こうとしていた自分を捕まえておいて、舌打ち!?」
無駄に説明的なセリフをつらつらと並べて目を丸くするスイに、戸惑う。
ただの、散歩?
「散歩・・・・・・?」
思ったことがそのまま声になっていた。
するとスイはふと目を細めて、こちらに笑いかけてくる。
「何か話でもあった? 聞くよ。ハクが何かに悩んでるなんてことは到底思えないけど、このスイ様が親友のためにひと肌でもふた肌でも脱いでやろう。なんなら全部脱ごうか!」
と、からかうように笑ってくるスイ。
けれども瞳は相変わらず慈愛に満ちていて、そのままその顔を見ていたくなる。
いつも、スイはこうして他人のことを案じたようにものを言うのだ。
「バカ言え。ヤローの裸なんかに誰が喜ぶかよ」
「え〜〜? 素直に見たいって言えばいいのに〜〜」
「見たくねえっつの、馬鹿やろ」
「その言葉、後で後悔したって知らないからねー」
「するかよ馬鹿。どう後悔するんだよ」
「あの時見とけば良かった! ってさ?」
「ねえな」
「うわは! 即答! まあ、ハクになんか見せる気もないけどねえ」
悪ガキのように笑って、ケラケラと声をこぼすこいつに、なんだかさっきまでの緊張感が馬鹿馬鹿しくなる。
何を不安に思っていたのだろうか、と。
けれどもそこで、思い出す。
いや、何もないのにムンドクがああなるものかと。
ハッと思い出して、スイの肩を捕まえる。
スイは何を勘違いしたのか、顔を青ざめさせてジタバタともがいた。
「ちょ、ハク!? 冗談にしてもさすがにこれは気持ち悪いぞ!!!」
どうやら脱がされると勘違いしたらしいスイが、「ぎゃー」とか「わー」とか喚く。
が、こんな軽口で、スイはいつだって俺たちを誤魔化してきた。
今日はそれに飲まれるわけにはいかない。
「鳥肌が、鳥肌が立ってきたから! ほんと、離してくださいハク様お願い!」
「ムンドクに何を言ってきた?」
ピタっと。
スイの動きが止まった。
暴れることを止めたスイは、目を細めてこちらをしっかりと見返してくる。
その表情に、ドクンと胸が唸った。
「なぁんだ。話ってそのことか。あんまりにも来るのが早いからさ、全く違うことだと思ってたのにな」
目を細めたまま、今まで見たことがないような表情を浮かべるスイに胸がざわめく。
まるで赤の他人を見るようなその瞳に、怖じ気そうになった。
「ムンドクには悪いこと言ったなって思うよ。でもさ、しょうがないじゃん。疲れちゃったんだもん」
草臥れたように肩をすくめて、スイが笑みさえ滲まなくなった顔で俺を見据える。
「ハクやお姫様のお守り、飽きちゃったんだよ。あの子のおかげで追われる身にまでなってさあ? 自分、可哀想だなって気付いちゃったんだよね!」
だから。
そうこぼして、無表情になっていくスイの顔を肝が冷える思いで見つめていた。
呼吸の仕方を忘れたように、酸素が取り込めずに心臓がバクバクと唸る。
残忍な笑みを浮かべて笑ったスイは、これまでに見たことがないほど冷えた顔をしていた。
「自分はここを離れるよ。父上も居ないし、自分は実質自由だ。ふたりもの荷物を背負う必要はないんだよね。ここを出て、自由に生きるつもりだよ。足枷は要らない」
冷め切った、低い声。
いつもの笑ってばかりのスイからは想像もつかないような声で告げられ、思考が停まる。
こいつは誰だ?
そんな馬鹿なことを考えてしまうくらいには、知らない人間が目の前にいた。
けれども、どうしても手を伸ばしてしまう。
その頬に、すがるように手を触れれば、スイの目の色が少しだけ揺らいだ。
そして気付いてしまう。
「なにを隠して行こうとしている? 次は誰を守ろうとしているんだ」
尋ねれば、息を飲む気配が手に伝わった。
スイが瞳を揺らがせたその少しの瞬間、こいつが時折見せる我慢している時の表情が垣間見えたのだ。
隠し事をしているとき、何かに耐えているとき、スイは少し悲痛な色をその瞳に浮かべる。
スイの親父が死んだときも、今と同じ顔をしていた。
今の色は、間違いないはずだ。
瞳を見開いて、悔しそうに視線を彷徨わせたスイ。
ああ、やっぱりスイだったと。
心底安堵してしまう。
「ハクは、言うこと聞かないじゃん」
小さくこぼされたその声は、まるで拗ねているみたいに子供くさかった。
昔から、自分のお願いなんか聞いてくれなかっただろう?と、スイがぶっきらぼうに言い捨てる。
いきなり何の話だとさらに顔を覗き込めば、怒っているような、泣きたそうな、悔しげな瞳と視線がかち合った。
また、ドキリと胸が鳴る。
「ハクにあの子をお願いって言ってもさ、ハクは子供だからいやだって駄々を捏ねるんだよ」
「は?」
突如としてこぼされた言葉。
思わず間抜けな声をあげれば、スイは溜まっていた水が吹き零れるかのようにツラツラと愚痴をこぼし始めた。
「断られるって、そんなことわかってるのにさ、わざわざ言うと思う? もう成り行きに任せるしかないじゃん。それに、疲れたのは本当だし、別に隠すつもりはないけど気付かないのはそっちだし、自分は一度だって肯定したことはないのにさ。みんな鈍いにも程があるんじゃないかって心底思うんだよね。だいたい、」
「待て、流れがわからん」
息継ぎはどうなってるんだと思わざるをえないつらつら喋りに、思わず停止をかける。
するとスイはそらみろとばかりに半眼でこちらを見上げてきた。
「これだよ、ハクはまったくもって辛抱が足りない。まず人の話をしっかり聞けないし、余計な詮索をする割には読みが浅い」
「だからなんの話だ!」
そこまでスイに自分が低く見られていたのかと知り、思わず声を上げる。
けれどもスイは表情ひとつ変えずにこちらを見据えたまま、しっかりと告げた。
「つまりは自分はここを出て行くって話だよ。ヨナを任せた。ハクはそれに頷いた。あの子を守るために必要な力は、この里という隠れ蓑と、ハクだけで充分だ」
「本気で言っているのか?」
「本気も本気! 言ったろ? 自分はもう疲れたって。面倒を見るのも、いろんなことに頭を悩ませるのも、ほとほと疲れたの!」
それは真実を言っている顔だった。
あっけらかんと言い放ち、スッと俺の手の中から離れていくスイ。
月夜の下で、その灰白色の髪が銀に揺れた。
「さよならだよ、ハク。今度会うときは、もう少しその狭すぎる視野を広げておくことだね!」
飄々と言ってのけ、さっさと何処かへ消えて行こうとするスイに怒りが湧いた。
「ざけんな! お前が出て行くってんなら、俺だってあいつのお守りなんか御免だ!」
叫べば、スイはズルッとその場に崩れた。
「は、はあ? ハク、せっかくの好機をみすみす逃すわけ!? せっかくあの子と夫婦になれるかもしれないこの好機を!?」
信じられないとでも言いたげに、スイがこちらへとズカズカと戻ってくる。
「な!? ばっ!!! んなこと誰が考え、」
「うっそだぁ! ハクって本当そんな阿保なわけ?! もったいなっ! 自分ならこの機に絶対貰っちゃうのに!!」
俺の言葉を遮り、言いたい放題並べるスイにブチンと頭の何処かで何かが切れた。
それからはもう、何をどう考えるよりも先にひたすら言い合ってしまった。
「ならお前が貰えばいいだろ?!」
「貰えたら貰ってるっての! 一生愛でて可愛がるに決まってるだろ!? 自分じゃ無理だからハクに託したんじゃん!」
「お前がなんで無理なのかが皆目わからん! 可愛がりたいんなら側に居ればいいだろ!」
「だあっもう! 埒のあかない会話やめないかい!? 無理なものは無理! ハクにとってまたとない好機! いただいちゃえばいいだろ!」
「訳のわからんこと言ってるお前がやめろ! あいつが好意を持ってんのは、俺よりもお前の方だろ!! お前だってヨナに好意を、」
「それは別の好意だよ! わかれよそれくらいさあっ!! これだから高華一の鈍ちんヤローは扱いが面倒なんだよ、馬鹿じゃないの!」
「な、別の好意ってなんだよ!」
「それくらい自分で考えろ馬鹿ちん!」
吐き捨てるように叫んだスイは、またこちらに背を向けて歩いていく。
その背中は悠然としていて、遠く感じる。
このまま行かせてはならないと、どうしても何かが警鐘を鳴らす。
「俺も行く」
「着いてくるなカルガモ」
「どうせまた何か企んでるんだろ」
「企んでたとしてもハクには言わない」
ふん! と、スイはもういつもの調子で俺を置いていこうと歩いていく。
さっきまでの冷えた表情は作っていたのかと気づくと、なんだかもう、後はどうでも良いほどにこいつが憎たらしくなる。
自分勝手で、意味不明で、屁理屈ばっかり唱える馬鹿な友人。
「着いてこないでよ、てゆうかもう帰れよ」
ぶっきらぼうに、こちらを見ずにそう告げるスイに、気持ちは決まる。
後先考えてるのか考えていないのか、俺よりも背の低いスイに守られる立場になるのは嫌だと。
「スイ、行くのは明朝にしろ」
「は?」
明らかに不機嫌な声で聞き返され、笑いをこらえる。
スイはどんな顔をするだろうか。
俺にだって、守る立場に属する権利はあるはずだ。
「俺も行く。準備するから、明朝まで待て」
「・・・ねえ、さっきの話ちゃんと聞いてた?」
呆れたように半眼に瞳を細めてこちらを振り返るスイ。
心底信じられないという面持ちで、隠すことなく大げさにため息を吐いてきた。
「どうせお前はまた、なんでも背負い込もうとしてるんだろ。おおかた、王の即位を拒否したムンドクとこの里を守りたいんだ、とかな」
「・・・・・・」
図星だったのか、スイは黙り込んだ。
けれどこちらを見て困ったように下げられた眉を見つけ、正解だと知る。
「ここに居れば、あいつは大丈夫だ。里の奴らが盾になるし、助けてくれる」
そう、ムンドクの側なら、ヨナは笑える。
だけど、スイは?
「お前は、無理だろ。ひとりで居るのは寂しいくせに、あてもない旅なんか途中で挫折して野垂れるだけだろ」
スイが昼寝をする時は、必ず自分達の誰かが側に居る時だった。
ひとりでいる時は、いつも何かをしていて気を紛らわせているような、そんな節さえ見えていた。
そんなこいつが、ひとりで旅なんか出来るわけがないと踏んでいる。
世話が掛かるのは、訳ありのお姫様もそうだがこの阿呆だってそうだ。
口ではなんだかんだと言う割に、今もこうして俺を引き離せないのだから。
「あの子にはハクが必要だよ」
しょげたように呟くスイに、笑いたくなる。