黎明の獅子 -akatsuki no yona-

□黎明の獅子 第三四幕
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幾日か過ぎた日の夕方。

黄昏の迫る空がやけに眩しかった。

剣の稽古中に、空の部族の武官のひとりが血相を変えて飛び込んで来た。

「スイ武官!早急に、ご帰宅を…!」

息も切れ切れな彼に、どうしたのかと詰め寄る。

その場にいたハクやスウォンも、何事かと眉をひそめていた。

「ラン、将軍が……!」

「父上がどうしたの」

胸がざわついて、途端に凍えた。

彼が何を言おうとしているのか、全く予想出来ていない。

けれども、嫌な警鐘が頭の中で鳴り響いた。

彼の、青ざめた表情。

確か彼は、父上の、最も身近な武官で…。

そこまで考えたとき、彼は泣き出しそうに表情を歪めて、絞り出すように言葉を吐き出した。

「ラン将軍が、ご危篤です……!」

「ッッ!?」

「スイ!!」

「ハク、私たちも急ぎましょう」

駆け出した自分の背後から、そんな声が聞こえた。

やがて後を追いかけてくる気配がスウォンとハクの物だとわかっても、頭の中は混乱で何も考えられない。

どの道をどう走ったのか、それすら思い出せぬほど。

自分はただがむしゃらに、父上とともに過ごしているはずの家へと駆け込んだ。

そして見つけたその光景に、足を止める。







「なに……してるの……?」






やっと絞り出せた声は、やけに掠れているように思えた。

横たわる誰かを囲んで、ムンドクや医師が暗い顔をして動けずにいる。

「スイ……すまん……」

小さく返された言葉は、なんの返事にもならない。

自分が問うた言葉の、なんの返事にも。

それなのに、そのはずなのに。

考えたくもないのに、脳が勝手に状況を理解しようとしてしまう。

「父上は……どうして寝ているんですか……今日も、任があったはずですよね……」

その場から動けないまま、自分は尋ねた。

ひどく喉が震えて、うまく声にすることが出来なかったが、ムンドクには伝わったはずだ。

「父上……、起きてください。まだ、夕方です。これから夕餉もありますよ。寝るにはまだ、早いです」

一歩、横たわる父上の元へ歩み出る。

その場にいる誰の声も、存在も、自分の目の前から消え去っていた。

ただ静かな父上だけがこの目に映っていて、そこから目を逸らせなくて、また、一歩近付いていく。

「父上……、不規則な時間に寝ると、身体に良くないと言っていたのは父上じゃないですか」

情け無い声がずっと溢れていく。

どうして自分の声は今、こんなにも震えているのか。

ピクリとも反応を返してくれない父上のそばに、ようやくたどり着いて、その閉じられた瞼を見つめて、胸の方から苦いものが込み上がってくる感覚を覚える。

「父……上……ッ!!!」

認めたくない。

知りたくない。

考えたくない。

いやだ。

いやだ。

いやだ。

いやだ。

いやだ。






いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。







父上ッ!!!!






父上の手に触れて、堪らず叫んだ。

どうして冷たいの?

どうして目を開けないの。

どうして起きてくれないの。

どうして自分を見ないの。





考えたくないのに、思考が揺さぶられた。

喉が震えて、奥歯がガチガチと音を立てて、視界が滲んで。

頭が追いつかない。

これはなんだ。

これはなんだ。

本当に父上か?

本当に?





「あ……あぁ……っう……ち、ちうえ……」





言葉が詰まって出てくれない。




これはなんだ。

これはなんだ。




誰か。

嘘だと言って。




誰か。





お願い。






父上!!父上……!ちち、うえ……ッッッ





何度も呼んでいるのに、ぎゅっと掴んでいるのに。

父上は目を開かない。

父上は手を握り返してくれない。






「う……あ、……ぁっ……うわぁあああああああああっ!!!!!





置いていかないで。

起きて。

起きて。

お願い。

起きて……!




何度すがっても、何度願っても。

父上は目を覚まそうともしない。

いやだ。

ひとりにしないで。

いやだ。

いかないで。

いやだ。

そばにいて。

いやだ。

お願い。

目を覚まして。

父上。

父上。

父上…………!











「ちちうえ……どうして……?」













尋ねた言葉に、答えなど返って来ないと。

そんなことはわかっているけれど。

問わずにはおられなかった。

どうしてなにも教えてくれなかったのか。

どうして、自分は父上の最後を見届けることが出来なかったのか。

どうして、こんなにも早かったのか。

尋ねても。

答えはないのに。

尋ねずには、おられなかった。
















──────
─────────・・・・・・
・・・スウォン視点・・・




聞こえてきた声は全て、これまで聞いてきた声とは別物のように悲痛なものだった。

呆然とその横たわる身体を目にしたスイは、やがてうわ言のようにラン将軍の名を呼び、ひどくつたない足取りで歩き出した。

ハクとふたり、言葉を失っていた。

静かに涙を流すムンドクの姿を目にした時から、ラン将軍が迎えたものが何なのかを理解していた。

痩せ細った身体。

やつれた表情。

血の気のない、その肌の色に。

彼がなにを迎えてしまったのかを、瞬時に理解してしまっていた。

やがてスイがラン将軍の元へたどり着いた時、その手を握った瞬間に、号哭をあげた。

心臓を鷲掴みにされるようなスイの激しい号哭。

自分が泣いていることに気付いていないのか、スイは頬を濡らしながらラン将軍に向かって喚き散らした。

「起きて……起きて……父上……ねえ、父上……!」

いたたまれない。

スイの泣き顔なんて初めて見た。

それどころか、こんな風に乱れるスイは、きっと見ることなどないと思っていた。

「いやだ!お願い……起きて……父上、置いてかないで…父上っ!!!」

動こうとしない身体を揺さぶり、スイが必死になってラン将軍に呼びかける。

誰が見ても、彼が二度と動かないことはわかっているのに。

スイだって、それを理解しているはずなのに、認めたくないと、その声が叫んでいた。

「約束はどうするんですか!自分は……っ父上のお側で、強くなると、そう言ったじゃないですか……!」

痛々しいほどの悲鳴。

いつも気丈なスイが、こうまで乱れるとは思わなかった。

「ねえ……父上……ひとりに、しないで、ください……」

ひっ、と。

ついにはしゃくりをあげて泣き出したスイを、私はもう見ていられなくなってしまう。

苦痛に表情を歪めて、ラン将軍の胸に額を寄せたスイ。

こぼれていく涙は拭われることもなく。

スイは甘えるようにラン将軍の胸に額をすり合わせる。

「父上……ちち、うえ……」

また、うわ言のように呟いて、スイはラン将軍の声が返って来ないことを思い知ると、過呼吸のように引きつけを起こした。

「ひっ……あ、ああ、はっ、は、ぁ…あ、…はっ、は、……あ、っっぁあああああああああああああ!!!」

「スイ!」

すかさず飛び出したムンドクが、崩れ落ちそうになったスイの身体を抱き寄せた。

けれども、スイの手はラン将軍の手を掴んで離さない。

「スイ……すまん……」

「うっああああ、ああ、ふ、ああああっっっ!!!」

言葉にならない声が、部屋中に響き渡る。

スイの悲痛な叫びが、どこまでも耳を貫く。

その蒼い瞳はただ一点を見つめ、虚ろに、悲しみを写して歪められている。

誰の声も耳に入らないのか、ムンドクの声すらも無視をして、スイは声を上げ続けていた。

やがて医師が音もなく立ち上がり、静かに部屋を出て行った。

ムンドクはスイを強く抱きすくめ、苦しそうに目を閉じている。

スイは返事をしないラン将軍を、なおも呼び続け、いやだと首を振り続けた。

私とハクだけが、なにも言えないまま、この場所から立ち去ることも出来ないまま、呆然と立ち尽くしている。

今にも壊れてしまいそうなスイから離れられず、何も言えず。

歯がゆさに、ただただ、苦しかった。

やがて静寂が訪れたのは、夜更けの頃だった。






















ムンドクに促され、ラン家の屋敷を出た。

スイはもう動かないはずのラン将軍の隣でうずくまって、答えもないのに、ただひたすらになにかを問いかけ続けていた。

「そっとしておいて欲しい」

そう言ってムンドクが私とハクとを連れて外へ出て、悲しげに視線を落とした。

「あれにはまだ、整理がつかんのだ。こうなることを、あいつも知っていたはずだったがのぉ…」

あいつ。

おそらくラン将軍を指してのことだろう。

そして察した。

ムンドクは、ラン将軍の異変に気付いていたのだと。

「スイは……大丈夫なんでしょうか」

こぼれた声は、自分のものなのにやけに小さく聴こえた。

大丈夫なわけがない。

わかっているのに、それでも聞かずにはいられなかった。

あのままスイまでどこかへ行ってしまうのではないかと、不安になったのだ。

ムンドクは私の声に泣きそうな表情を浮かべて、なにも言わずにただ、首を振った。

「ジジイ、シュウン将軍はいつからああなっていた」

鋭く切り込んだハクに、ムンドクは苦しげに息を吸い込む。

「……一年前からだ」

「つまり、スイに指南役をあてがった頃からか」

「察しがいいな。その通りだ」

「あいつは忙しそうにしているから気づかなかったんだろうけどな、俺は気付いていた。シュウン将軍が、半年前からどこにも顔を出さなくなってたこと……逆に、どうしてスイがなにも気付かねえのか不思議なくらいだ」

「そうなるよう、あいつが仕組んだからだ」

曰く、ラン将軍はスイが自身の異変に気付かないように、策を転じたのだと。

忙しくなるように仕向け、家ではすれ違いの日々を送る。

やがてスイが指南者として上手く働き始めた頃、ラン将軍は長期の任に出ると書き置きし、ラン家の屋敷からも姿を隠した。

そうすることで、スイとラン将軍は半年間、会うこともなく。

スイは日々の多忙からそれに気付くことも出来ず。

そして、今日が訪れた。

「本当は、もうとっくに息を止めていてもおかしくはなかったのだ。シュウンの阿呆は、最後までスイのことばかり考えていたよ」

やつれた頬と、痩せこけた身体。

どれほどひどい状態だったのかなんて、見ればすぐにわかった。

食事も睡眠も、ろくに取れていなかったのだろう。

それでも我が子を思って、生き続けていたのだと、ムンドクは悔しそうにこぼした。

「家に帰りたいと、そうあいつが言った時から覚悟はしていたがな……」

ポタリ、と。

ムンドクの頬を伝った涙が地面を濡らした。

泣いてはいけないと、そう自分を叱咤していた。

誰よりも悲しいスイの側で泣くことは、自分が許せなかった。

スイの側を離れて、ムンドクから話を聞いてしまったいま、そんな我慢はあっけなく崩れ落ちる。

たまらず、顔を覆ってしまう。

「スイは、どうなりますか……スイに、なんて声をかけたらいいんですか……」

つい先日のことなのだ。

スイならば、すぐに将軍になれると告げたのは。

そんなことを私が願ったから、こんなことになったのでは?

なんてことまで考えてしまいそうで、のうのうと笑っていた自分に罵声を浴びせたくなる。

スイはもう、二度と私には笑ってくれないのではないか。

スイは、この先どうするのだろうか。

ぐちゃぐちゃになりそうな思考で、それでも考える。

「……私は、これからもスイの隣に居ていいんでしょうか」

「居てくだされ。あなた様やハクが側に居てくれたら、どれほどスイの救いになるか」

「言われなくても、俺はそうする」

「……私も、離れません」

スイに拒絶されるまで、いつまでだってその隣に立っていたい。

「スイを……頼む……」

うな垂れるように、ムンドクがまた俯いて涙を流した。

スイは今頃、ラン将軍の隣で寝ているのだろうか。

ハクやムンドクと別れ、城で与えられている(へや)へと戻ってきて、寝台に横たわる。

目を閉じれば、スイの悲痛な号哭が聞こえる気がした。

初めて見たスイの涙は、あまりにも悲しく。

この胸を、ひどく締め付けた。

















享年38。

若くして死したラン・シュウンの葬儀は、粛々と、密かに済まされた。

そして同年。

ラン・スイがシュウンの後を継ぎ、空都第二武軍将軍へと昇格。

二刀剣を操るその姿は美しいのに獰猛で、雪解けのように白い銀髪が舞う様を、だれかが白鬼と囁いた。

スイが高華の白鬼と呼ばれるようになるのは、少しあとのこと。








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