黎明の獅子 -akatsuki no yona-
□黎明の獅子 第三七幕
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「スイ……息を吸ったらお腹が逆にへこんでしまうわ。硬くならない」
「俺も……なんか上手く出来そうにない」
「おや」
困った顔でこちらを見上げてくる小動物のような二人に、ほんの少し癒しを覚えながら自分は苦笑を落とす。
「そっか。腹式呼吸から教えないとか」
「腹式呼吸?」
「なにそれ」
小さなふたりがこてんと首を傾げさせるのを頬が緩む思いで眺めて、ふたりの側に近づく。
「ふたりとも自分に寄ってきて。肺とお腹の使い方から教えるから」
呼び掛ければ素直に寄ってきた二人の手を捕まえて、自分の腹へと触れさせる。
ユン君は何故か「ええ!?」と驚いた声を上げて逃げようとしたが、そこを無理やり押さえ込んで腹に掌を当てさせ続けた。
「寝てる時の呼吸を起きている時もやるんだよ、こういう風に」
すぅっと息を大きく吸い込めば、肺のすぐ下の方が膨んでいく。
逆に、息を限界まで吐けば鳩尾の下の方がぐっと硬くなる。
「吸うのも吐くのも限界まで続ければ、肺が大きく膨らんで横隔膜が鍛えられるし、腹筋が強化されるんだよ」
「おうかくまく……?」
「深呼吸だけで腹筋って鍛えられるの!?」
聴き慣れない単語にまたも首を傾げるヨナ姫と、思わぬ事実で驚きを隠せないユン君。
その素直な反応に思わず笑って、ふたりの頭をついつい撫でる。
「人間って言うのは、ただ座ってるだけでも、立っているだけでもいろんな筋肉を使ってるんだよ。意識を向ければ大きな運動をしなくたってそこを鍛えることが出来る。例えば座ってる時は背筋を伸ばしたり、立っている時は姿勢を良くすることで頭の先から足の先まで色んな筋肉を使ってるんだ」
呼吸もしかり。
「ただの呼吸だって普段から腹筋や背筋が動いてるものだから、そこに意識を向けて動かすようにすれば鍛えられるんだよ」
ぐっと、息を吸って腹に力を入れてみせる。
すると、ふたりの方から息を飲む気配が伝わってきた。
「……すごい、スイのお腹、本当に硬くなってる」
「何この腹筋、ありえないんだけど」
「表面上、自分はあんまり筋肉あるようには見えないだろうけど、内側の方を鍛えてるから触れば硬いよね」
ほんの少し得意げにそう言えば、ユン君がどこか悔しそうに唇を尖らせた。
「……男の俺より筋肉あるとか、なんか許せない」
「ははは!でもまあ、ユン君も鍛えればそのうちこうなるから」
男女で筋肉のつき方に差がある。
ヨナ姫は難しいとは思うが、ユン君ならば腹式呼吸だけでも会得してしまえばあっという間に腹筋も付くだろう。
それに、彼はまだ成長途中の健康男児だ。
伸び代はどこまでもあるのだ。
「というわけだから、まずは腹式呼吸からね。感覚が掴めないなら寝転がってやらせるからね」
手を叩いて二人にさっき教えたことをやるように促す。
素直な二人は言われた通り深呼吸に徹し、それを眺めている外野達まで腹式呼吸をやり始めて異様な光景が広がった。
合気道の本題に入るのは、もう少し後になりそうだ。
どうしても腹式呼吸が出来ない二人を母屋へ寝そべらせて、寝ているときのお腹の動きを覚え込ませた。
息を吸って止めて吐いて止めてを繰り返させ、徐々に息を止める時間の長さを増やしてやればそれだけで苦しそうだった。
苦しい分、それだけ筋肉を使っているし、それだけ呼吸が未熟だということがわかるいい機会になっただろう。
数日ほどはこの修行をさせようと企て、今後どうしていくかも考える。
合気道というのは完全に会得するとなると数年はかかる。
今ふたりが必要としているのは、すぐに応用できる簡易的なもの。
どこまで教えられるものか、ほんの少し不安だった。
何せ武人でもない人間に武術を教えるなんてことは初めてだ。
海賊船では、彼らはそこそこに戦いに身を置いて鍛えられていたし、今置かれている状況とは訳が違った。
素人にどれだけ力を付けさせられるか、そこは自分の頑張りというよりは二人の努力に期待するしかなくて、祈るように小さな彼らを見た。
本当なら、窮地に身を置かせるようなことはしたくないのが本音。
こんな技術を覚えずとも笑って過ごせるように守ってあげられるのが理想だというのに、現実はそうもいかず苦戦ばかりだ。
自分の不甲斐なさに少しの悔しさを覚えながらも、強くなろうとする二人を前に頼もしさすら感じ、矛盾に戸惑う。
こんなことをハクに言えば笑われるだろうか。
スウォンは……共感してくれるだろうか。
懐かしい日を思い出して、夢に見て、途端にスウォンがどう過ごしているかが気になっていた。
遠く、ヨナ姫もハクも居ないあの城で。
スウォンは何を思って過ごしているのだろう?
自分が生きていると知った時のスウォンの表情には、確かに安堵の色が浮かんでいた。
ヨナ姫やハクが生きているかもしれないと考えた時のスウォンは、本当に安堵したように眉を下げて泣き出しそうな顔をしていた。
心が、揺らされた。
討つべき相手と決めていたのに、その目で見つめているものがなんなのかを知りたくなって、あの頃に戻れたらなんてまた考えてしまって、四人で、笑って過ごせたらどんなに幸せだろうと願ってしまって。
そこに四龍のみんなやユン君も居て、笑っていられたら……どれほど幸せかと考えてしまう。
それが絶対に叶わない絵空事だとも知っている。
だからこそ、今ここで沢山の人に囲まれて過ごす自分と城でひとりでいるスウォンとを比べてしまう。
「(スウォン……お前は、ちゃんと笑えているの……?)」
あの日からスウォンが笑えていない気がして、ほんの少し悲しく思った。
許されない罪。
彼が背負ったのは、決して消えることのない重すぎる業だ。
けれども、同情をしてやることもしない。
自業自得。
まさにその言葉が当てはまる。
ひとりになったのはスウォンがその道を選んだ結果だ。
自分もまた、彼をそうさせてしまった業を背負って生きていく。
だけどおかげでわかったこともある。
差し伸ばされた手を拒む必要はなく、受け入れて良いのだと。
苦しいともがいたその手を取ってくれる誰かの手があれば、強く掴んでいいのだと。
ハクやヨナ姫が教えてくれた。
だからせめて、スウォンにもそんな人が現れるようにと願う。
そして互いに決断をするその時が来れば、私達は互いに剣を突きつけ合うのだ。
夕食の前も、そのあとも。
ユン君とヨナ姫は懸命に呼吸を覚えようと頑張ってくれていた。
ハクは時々からかうようにふたりの面倒を見てくれて、自分もまた行き詰まりそうになったふたりに助言を与えてやる。
キジャやシンア、ゼノが真似して一緒に深呼吸をしているのを見れば面白くなり、笑った。
そうして夜が深まって月が真上に登れば、父上やイル陛下を思い出して目を閉じる。
───どうか、私が道を違えぬよう見守っていてください。
大事なヨナ姫を守り抜けるよう、力を……。
眠りに落ちるその少し手前。
ハクが静かにこちらを見ていたことには、気付かないふりをして意識を睡魔へと委ねた。