黎明の獅子 -akatsuki no yona-
□黎明の獅子 第三八幕
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「おかえり、重かった?」
村に帰るなり、スイちゃんが僕を出迎えた。
背中に担いできた水瓶を見て、その顔を綻ばせながらも申し訳なさそうに眉を下げるスイちゃん。
そういうしおらしい表情を見せられると、ちょっとときめいてしまう。
「いや、これくらい平気だよ。量足りる?」
「んー、じゃあ後五往復してもらおうかなぁ……」
「え"」
「冗談だよ。ありがと、助かったよ」
にひっと、悪戯まじりに笑われてまた僕の胸がきゅんとときめく。
普通にしていれば美人なそんな女性に手のひらで転がされるのは、ギガン船長同様すごく楽しい。
こんな僕を知れば、おそらくスイちゃんは全力で気持ち悪がってくれることだろう。
それはそれで美味しいのだけど、とりあえずは少し休ませてもらう事にする。
「ちょっとここで休んでていい? 手がかじかんじゃって」
「いいよ。また生姜湯飲む?」
「やったー」
お駄賃に草餅という話は僕の方から断った事だけど、それでもスイちゃんは何かご褒美をあげたいらしく、また生姜湯を飲ませてくれるらしい。
本当にスイちゃんは義理堅いというか、真面目というか。
「はい」
「ありがと」
手渡された湯呑みを両手で包むと、手のひらからじんわりと熱が広がっていくのを感じる。
思わずほっと息をつくと、スイちゃんがくつくつと喉を鳴らして笑っていた。
「川の水、冷たかったろ。常に流れているから、そこらに溜まって陽で温められた水よりだいぶ冷たいんだよ。少しゆっくりしてたらいいよ」
「あー、なるほど。海とは違うわけか」
「海は漂っているとはいえ、表面は常に太陽によって温められているからねぇ。川と比べると温いだろうけど、底へ行けば同じくらい冷たいんじゃないかな?」
「へぇ。そんなに深くまで潜ったことないや」
「自分もないけど……海女の人に聞いたことがあるから確かだと思うよ」
「ふぅん?」
水瓶から水を汲み取り、鍋に入れてまた大量の食事を作り出すスイちゃん。
話はどれも興味深く、本当に彼女が博識だということがわかる。
加えて話し方もわかりやすく丁寧で、聞いていて飽きが来ないから面白い。
彼女がどう育って来たのか、尚更気になって仕方がなくなってしまう。
じっと鍋をかき回すスイちゃんをなんとはなしに見つめていると、ふいに蒼い瞳がすっと僕の方を映した。
吸い込まれるような深い蒼。
海のようにも、空のようにも見えるその色は一見冷たく見えるのに暖かく感じるから不思議だ。
「何か聞きたいことでもある?」
急に問われた言葉に、頭の中がスイちゃんでいっぱいになっていた僕は思わず「え⁉」と声を漏らしていた。
「ずっと何か言いたげにこっちを見てるよね。けど、すごく観察されている感じもするし、何か聞きたいことがあるのかな? って」
「すごいね」
「観察力は鍛えてある方だからね」
「君はいったい何者なの……」
あまりに能力値の高いスイちゃんに対して、なんとなしに口にしたその言葉。
だけど僕は、その言葉に僕が聞きたいスイちゃんの全てが詰まってる気がした。
スイちゃんはそれを汲み取ったのかわからないけれど、僕をじっと見つめ直すと考えるような仕草をして、ふいに肩を竦めさせた。
「城で空の部族の武将をしていたことは聞いてるよね」
「うん」
「自分はご覧の通りこの姿で育ってきて、死ぬまで男としてあの子を守るためだけに生きていこうと思っていたのだけど……」
ちらりと、スイちゃんの視線が冷たい水でお椀を洗うヨナちゃんに向けられる。
「城で色んなことがあって、あの子をハクとふたりで連れ出して逃げてきて、その後もいろいろあってさ。ちょっと崖から落ちたんだよねぇ」
「は、崖……⁉」
「そうそう、痛かったよ〜」
ははは。なんてあっけらかんと笑うスイちゃんに言葉を失う。
どれほどの崖かは想像もつけられないが、恐らくスイちゃんが受け身すら取れないような高さじゃないかと推測する。
彼女の身軽さは見ていてよくわかる。
痛いと言ったのはどうすることも出来ずに落ちたということを如実に表したものなのだろう。
「それこそ、自分は背中にも腕にも脚にも毒矢が刺さっててさ」
「ちょっと待って、スイちゃん本当に何があったの⁉」
「追われる身で追いつかれちゃってさぁ。こう、やられちゃったというかポカしたというか」
「いやいや、そんな気軽に話すような内容じゃないよね⁉」
「ユン君居なかったら死んじゃってたんだよねぇ、自分」
ははは。と、また何でもないように笑うスイちゃん。
待って。思っていたより壮絶過ぎる。
「それで……その後はどうなったの?」
「まあ、崖から落ちて……ユン君に治療を受けている時にハクとお姫さんに隠していた事があっさりとバレちゃったんだよ。その時が人生で一番の正念場のように感じたなぁ」
「……なるほど」
苦笑を漏らして、今度はほんの少し恥ずかしげに眉を下げたスイちゃんに僕はようやく理解する。
ハクがスイちゃんに対して妙な執着のようなものを見せている理由が。
男だと思って接してきた相手が実は女性で、それも死にそうな程の大怪我を負って生命の縁を彷徨ったことがあるとすれば。
その場にいたのが、ハクの立場が僕だったら、耐えられない。
「ハクはきっと負い目に思ってる。自分がどれだけ気にするなって言ってもあいつは女々しいところあるから、ずっと気にすると思うんだよね。だから正直言うと、四龍のみんなが側に居てくれるのは嬉しいんだよ」
ふっと、苦笑から一変ひどく穏やかに笑うスイちゃんに胸がしめつけられる。
僕たちが着いてきたことで、スイちゃんがそう感じてくれていることが素直に嬉しい。
「ハクが負い目を感じないくらい騒がしくなってくれたら、また馬鹿みたいに笑えると思うんだ。自分も背中を合わせる相手が増えて危険も減って、お姫さんを全力で守れる。だから、話せることは話すよ。聞いてくれていい」
視線をヨナちゃんから僕に戻して、スイちゃんが唇の端を緩める。
聞いてくれていい……その言葉で、僕はスイちゃんに感じていた薄い壁が取り払われた気がした。
どこか一線を引かれているように思えていた。
これ以上入ってくるなという見えない壁があったように思えて、いま一歩近づくことが出来なかったのに。
スイちゃんから下ろされた壁の先が見えて、またどうしようもなく泣きたくなった。
守ってあげたいとか、従っていたいとか、そういう気持ちではなく。
ただ、ただ。いつまでも見ていたいと思うのはどうしてなのだろう?
熱くなる目頭をどうにかやり過ごそうと思って、僕はふと気になったことを気軽に聞いてみる。
「ええと、じゃあ、武将になったばかりで城を離れたのは残念だったね。お給料とか割と貰えたんじゃないの?」
「ん? 自分が武将になったのは十三の時だよ」
「え」
「十三の時」
「え……十三? 最近じゃなくて?」
「そう」
「……もしかしてスイちゃんって鬼強い?」
「高華の白鬼って呼ばれてた」
「そういえばそうでした」
「うむ」
「……」
思わず口元を手で押さえて、スイちゃんの底知れない経験値に言葉を失う。
強いとは思っていたけど、船でもそれを見ていたけど……。
「(これは……予想外に守ってあげられる機会が少ないかも知れないぞ)」
これからは僕がスイちゃんのことも守ってあげたいだなんて、頭のどこかでそんなことを考えていた自分が悲しくなった。
「たしかに、ハクとも互角だったね……」
ポツリとこぼした僕の言葉を拾って、鍋の火を弱めたスイちゃんが悪戯っ子のようにくつくつと喉を鳴らして笑う。
「互角とまではいかないけど、短期戦であいつから一本取れるくらいは強いつもりだよ。長期戦は無理。体力ないから」
よいしょ。と鍋の中に味噌を投入していって、スイちゃんが作り終えた雑炊をまたお椀によそっていく。
「聞きたいことはこんなもんかな? そろそろご飯配りに行きたいから、ジェハもそれ飲んだら仕事に戻れよ。ハクがずっとこっち見てるから」
「え」
言われて見上げると、ハクが胡乱な眼差しで僕の方を見下ろしていた。
「後でハクにも生姜湯あげないと拗ねるなぁ、あれは。あいつ時々子供みたいだよね」
面倒くさそうにそう呟いて、スイちゃんが小さくため息を落とす。
けれどもどこか楽しそうで、僕はそんなスイちゃんとハクの絆を感じてほんの少し妬ましく思ってしまう。
いつかは僕も、スイちゃんに笑って面倒くさいとか言って欲しい。
「僕も負けずに頑張ってみようかなぁ」
「おー、頑張れ頑張れ。さぼるなよ」
「はは、まあ見ててよ。あっという間に近づいて見せるから」
「そりゃ、お前なら屋根まではひとっ飛びだろうよ……」
「んー、ちょっと違うけど今はそれでいいや」
「なんだよ」
「こっちの話。それじゃ、スイちゃんもちゃんと休憩するんだよ、またね」
「しばらく戻って来んなよ」
「はーい」
小気味のいい軽口を言い合って、僕はハクの待つ屋根へ飛び上がる。
空中からスイちゃんの背中を見て、思わずこぼれたのは苦笑だった。
僕が気にしていることをすぐに見抜くのは、スイちゃんの恐ろしいところだ。
まさかのどんぴしゃで答えをくれるから驚かされる。
心を読めるのかと不安に思うほど、スイちゃんは人のことをきちんと見ているようだ。
屋根に着地するなり、ハクが「このサボり」とチクチク刺してきた。
「川に行ってきたんだよ、見てたくせに酷いなぁ」
「スイのやつと何話してたんだ?」
「ハクにも生姜湯あげたいから後で降りてきてってさ」
「生姜湯……よし、ちょっと行ってくるわ」
「はーい」
聞くなりすぐに屋根から飛び降りて行くハク。
素直なその感じはスイちゃんの言うようにどこか子供っぽく、ほんの少し可愛げを感じる。
なんとはなしに見ていれば、ハクと、さらにはヨナちゃんまでをも呼び寄せてスイちゃんが生姜湯をみんなに配り始めていた。
スイちゃんが道中でやたら生姜を取っていたのはこういう時のためだったのかと感心しながら、僕もまた休憩した分を取り戻すために手を動かしていく。
「さて、頑張るぞー」
誰に言うでもなく呟いた声。
風がさらって、どこかへと運んでいく。
前にもこんな日があったようなそんな錯覚に、僕はふと唇を緩めるのだった。