紫雲の錬金術師
□第1話 プロローグ
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「ほお…あれがマスタング大佐がお気に入りの国家錬金術師かい」
「錬成陣無しで錬成出来るらしいな」
「鋼の錬金術師と同じか」
「だがアレは、なにを考えているのかわからん顔をしているな」
「いやしかし、随分と整った顔をしているじゃないか」
「気をつけろ。可愛い顔をしていても、大佐お抱えの狂犬だ。いつ噛みつかれるかわかったもんじゃない」
「シオン・グラールか……彼女がどんな狗に成り下がるか、見ものだな」
全部聞こえてるっつーの。
通り過ぎ様に聞こえてきたそれらの会話に辟易しながら、司令部を目指して歩を進める。
シオン・グラール、17歳。
性別は女子。
国家資格を取ったのは、つい先日のことだった。
そして、シオンという名前を思い出したのは、半年前のこと……。
私は世に言う、なんともベタに思われがちな記憶喪失というものになっていた。
東方司令部付近の道端で倒れていた私を拾って来たのが、あちこち旅をして回っているエルリック兄弟。
そして、目を覚まし途方に暮れていた私の面倒を一手に引き受けてくれたのが、今は上司となったロイ・マスタング大佐である。
士官学校に通っていたわけでもなかった私はただ資格を手にしただけに過ぎず、軍人としての勤めはない。
そもそも、国家資格を取ったのにも理由がある。
資格を取れば、国から研究資金が貰える。
私はそのお金を使って、記憶を取り戻そうと考えたわけだ。
誰も知らないというW日本Wという故郷を探すべく。
グラールというファミリーネームは大佐が適当に付けた偽物で、私の知っている自分のことと言えば、この『シオン』という名前と、日本に住んでいたかもしれないという曖昧な思い込みだけ。
ゆえに、私はついにある計画を実行することになる。
大佐の元で半年間必死に頭に叩き込んだアメストリスという国と、様々な世界の成り立ちや仕組み。
そして、錬金術に関してのいっさいの知識。
この国の東に、大国と呼ばれるシンと言う国がある。
そのシンには、私の容姿と似た人たちが暮らしているとか。
そこへ行けば、何か手がかりが掴めるかもしれない。
そうじゃなくても、この国のどこかに欲しい情報が転がっているかもしれない。
だから今日は、この手に持つ一枚の書類を上司に提出して、旅立つ準備を整えなくてはいけないのだ。
「おはようございます」
軽くノックしたのちに、すぐさま扉を開き中へ足を踏み入れる。
「ああ。おはよう、シオン。今日だったか」
「はい。コレにサインをお願いします」
「……どうしてもか?」
「どうしてもです」
キッパリと告げた私に、上司は「ふぅ」と諦めの表情を浮かべる。
「……わかった。だが、こちらとしても条件を出したい」
「え?」
神妙な顔で、上司であるマスタング大佐がデスクの上で両手を組む。
じっとこちらを見据えるその漆黒の目は、私の目の色に似ていてどこかホッとするというのに、今日はやけに鋭く感じた。
「大佐?」
こちらを見つめて、一向に口を開かなくなった彼へ近づき、先を促すように問いかける。
すると、今度はかなり深いため息をこぼされた。
「君を彼らに任せるのはひどく遺憾なのだがね。安全面を考えると、そうも言っていられない」
「はあ……あの?」
いったいなんの話をしているのだろう。
小さく小首を傾げてみせれば、大佐はもどかしげに表情を歪めて、私の名前を呼んだ。
「シオン……本音を言えば、君をこの場所に閉じ込めて、何者からも守ってやりたいと思っている」
真剣な表情。
兄のようでもあり、師匠のようでもあり、なにかと私に優しいその人は、私が傷付くことを何よりも恐れてくれる。
「だが、過去を知らないという君の恐怖も理解したいと思っているからね。君が望むというなら、どんなことにも手を貸そう」
「……ありがとうございます、大佐」
誰よりも一等深いその優しさに、胸の奥がジンと熱くなった。
嗚呼この人は本当に、どこまでも私に甘い。
その優しさがむず痒くて、どこか嬉しい。
「君は今、私の管理下に居る。そしてその管理下を離れ旅に出る。そこでこの条件だ」
上司としての顔をこちらに向けて、大佐は一言、こう告げた。
「エルリック兄弟……彼らと同行しなさい。探しているものは違えど、各地を転々としている点では利害は一致するはずだ」
「えと、同行……ですか」
「そうだ」
なるほど……エルリック兄弟と言えば、武術にも長けた錬金術師。
大佐も一目置いているわけで、何より、私からすれば気心の知れている友人達でもある。
提示されたその条件に、私は思わず笑ってしまった。
「過保護ですね」
「これくらい序の口だ」
「それはちょっと、どうなんですか」
「鋼のに任せるのは、とてもかなり物凄く果てしなく嫌なんだがね」
「そんなにですか」
「当たり前だろう」
当たり前なのか。
思わず内心で笑ってしまうのは仕方ない。
この人は時々子供のように拗ねたりするのだから。
クスクスと笑ってしまった私を、大佐はゆるりと目元を細めて見返した。
「……君の帰る場所は、ここにある。何処へでも行って、いつでも帰って来るといい」
そう言って、優しい眼差しで大佐が笑う。
そんな嬉しさから、大きく「はい!」と頷いた。
その様子に気を良くした大佐は、ほんの少し含むような笑みをその顔に浮かべてニヤリと口角を上げる。
「なんなら、今すぐ私と家族になって、本当にここを帰る場所にしても良いんだよ。君が妻になるなら、私の仕事も捗りそうだ」
「ははは、またまたご冗談を」
「大分本気なんだがね、君の手料理を毎日食べられることが私の至福だった」
「そういう事は、本当に大事な人だけに言わないと、後々痛い目に合いますよ」
「……心得ておこう」
肩をすくめてやれやれといった様子で笑う彼に、私も眉を寄せて笑い返す。
子供のように拗ねたり、こうして私に冗談めかしたことを言ってきたり、なんとまあ忙しい人だろう。
女好きと名高い大佐が言うことを真に受けてはいけないと、以前ハボックさんに教えて貰ったことがある。
そうして私は、彼のこういう冗談をやんわりと交わすことを覚えた。
その度に、大佐はちょっとだけ悲しそうな顔をするのだけど、それでもすぐにいつもの調子に戻るものだから、私は彼のそういった言動を本気にしないようにしている。
「準備はもう出来ているのかね?」
「はい」
「いつでも行けるってわけか。本当に、君の行動力は群を抜いているな。……国家資格を取ると言いだしたときも、あっという間だった」
寂しそうに、大佐が小さなため息をつく。
それがまた嬉しくて、私は上司に向けて張っていた気を緩めて笑った。
「……ロイさんは、いつか職務怠慢でリザさんに撃ち抜かれそうですよね」
「君が側に居れば、そんな日は来ないはずなんだがね」
「はいはい」
また軽口で私に笑い返す大佐、あらためロイさん。
ずっとここを離れるわけじゃない。
旅に出たとしても、定期的にこちらへ帰って来て報告を出すことになっている。
東方司令部を起点に動くわけだ。
だから、早ければ2週間や1カ月でまた会えるというのに、どうして旅立とうとするときはこんなにも寂しく思えてしまうのだろう。
「大丈夫ですよ。どうやら私、結構強いみたいなので」
「私も驚かされたものだけどね、君の強さには。だけど、右も左も分からない女の子だ」
「それを、これから知りに行くんです。……ロイさん。私は、故郷を見付けたその時、もしくは見付けられなかった時、ひとつだけ選ぼうと思っていることがあるんです」
「選ぶとは?」
予想していなかっただろう言葉を私から投げかけられて、ロイさんが訳がわからないといった様子でさっきの私のように首を傾げた。
ふふっと笑って、不敵に口元に弧を描いてみせる。
「記憶の無い今の私は、貴方が救ってくれたものです。それなら全て思い出した時、思い出せなくとも、この命を貴方のために使ってやろうと思っています」
「……軍の狗になると?」
「いいえ。W貴方の手札Wになるんです」
「…………」
軍の狗に成り下がる気はない。
どうせ力を使うなら、目の前の彼のためにこの身の全てを委ねてやりたい。
まっすぐにロイさんを見つめれば、心底複雑だという表情を返された。
「妻になることは嫌がるのに、私の手駒には進んでなろうと言うのか」
「日本人は、恩返しを必ずするものなんですよ」
「……いいだろう。では、必要となれば君の手を借りさせて貰うことにしよう」
「喜んで」
「まったくもって、実に複雑な気分だよ。そんな覚悟をされているんじゃ、私は大人しく待っているしかないじゃないか」
「待つのは嫌いですか?」
「性には合わんが、君になら待たされるのもいいだろう。好きなだけ探して来なさい」
「はい!」
苦笑に近い笑みを浮かべたロイさんは、私から受け取った書類に静かにサインを押した。
これで、私はすぐにでも旅立つ事が出来るようになった。
W研究のため、地方を巡るW。
それが、今回私の出した旅立つための申請内容だ。
さて、問題はエルリック兄弟が今どこに居るのかということだ。
彼らも定期的に連絡をくれはするが、事後報告も多いために何処にいるのかという情報は曖昧である。
「あの、ロイさん……」
今あの二人はどこに?
そう尋ねようとした時だった。
外から騒々しい足音と声が聞こえてきて、見覚えのある二人組みの姿が室内へと飛び込んで来た。
「なんだよ大佐!今すぐコッチに戻って来いって理由もなしに電話を切りやがって!」
「兄さん、少し落ち着いて」
「……」
なんて用意周到な……。
そう思ったのは、仕方のないこと。
こちらへ目線を向けることなく、ニヤリと笑ったロイさんに私は気付いてしまう。
私と同行させる為だけに、彼らをここへ呼び戻したのだろう、と。
「あれ、シオン」
「なんだ、今日はお前も居たのか」
「ははは……」
私の姿に気付いた二人が、驚いた顔をして動きを止めた。
アルフォンスは嬉しそうに近寄って来てくれて、私も久しぶりに会う彼に心を躍らせる。
「今日もお弁当作って来たの?」
「ああ、いや。今日は別件なの」
「別件て?」
「そのことなんだけどね……」
ゴホン。
会話に花を咲かせようとする私たちに、ふいに咳払いが向けられた。
二人揃って咳払いが聞こえた方向、つまりロイさんを見れば、にこやかに微笑む彼の姿が目に飛び込む。