黎明の獅子 -akatsuki no yona-
□黎明の獅子 第三十幕
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よく晴れた日の昼下がり。
太陽は真上へ登っていて、陽の光が燦々とあたりを照らしている。
時々、穏やかな風が肌をくすぐるようにそよいでいき、実にのどかであった。
けれども、不意に足を止めてしまう。
「だぁから!何度言えばわかるんだよ!!」
「何度言われたって知るかよ!」
「君も大概石頭だな!?自分にはアレが限界だったの!あの試合の勝者は間違いなく君だってば!」
「納得いかん、そう言うならもう一度手合わせしろ」
「それはさっきもやったじゃん!そんで自分の負けだって言ったじゃん!!」
「あんな手の抜き方許さねえぞ」
「手なんか抜いてないっての!!!」
もう!
と、酷く呆れたように荒げられたその声と、聞き覚えのある声。
ヨナ姫に会いに行く道中であったが、ふと見渡した東屋の方に、珍しくもハクが誰かと一緒に居る様子が見えた。
物陰で相手の姿はよく見えなかったが、ハクの姿だけはこの長廊下からも見える場所にあって、よくよく見れば心底不満そうに眉間にしわを刻んでいるのが確認できる。
誰に何を言われようと一切相手にしないといった姿を見てきていたから、ハクのああいった素直な表情は、ここ最近ではあまり見たことがなかった。
ふと向こうがこちらに気付き、眉をひそめた。
バツが悪そうに表情を歪めると、諦めた様子で小さく手を挙げる。
「よぉ、今から姫さんのとこですか」
「ええ、しばらく此処に居ていいと言われたので、挨拶に」
「そうですか」
ほんの少し、いつもより無愛想に返された言葉。
おそらく、それは私に対して向けられた感情ではないように思える。
ならば、その物陰にいる誰かのせいなのだろう。
相手が気になり、私はハクの方へとゆっくりと歩を進めた。
「何か、取り込み中でしたか?」
「え、いや……」
近づけば、ハクが驚いたように目を丸めたが、知らないふりをする。
ハクがこうもムキになって掴みかかる相手の顔を見てみたかった。
東屋の塀の向こうへたどり着き、そこにいた人物を目で確認して、ハッと息を飲む。
日に透けて銀に揺れる髪も、どこまでも澄んだような深い蒼海の色をした瞳も、それらを縁取るように魅せる白い肌も。
まるで造形物のように綺麗に見えた。
驚く私に対して、向こうも息を飲むようにして慌てて敬礼を取る。
「これは、スウォン様でいらっしゃられましたか。見苦しい場をお見せ致しまして、失礼を…」
武人なのだろうか。
見事な礼を取ったその人は、片膝を着くと深々と頭を下げた。
それがどうにも、妙な気持ちになる。
「顔を、上げてください」
「……は」
私の声にピクリと肩を揺らし、その人は恐る恐ると言った様子でこちらを見上げた。
長い睫毛と、切れ長の目元がやけに印象的だった。
武具を身にまとっていなければ、その人を女と見間違えてしまうほどには、綺麗な顔をしている。
私もそう思われることが少なくはなかったが、彼は特にそう思われることが多いのではないのだろうか。
けれども、彼が次に口を開いた途端、そんなまやかしは何処ぞへと消え去って行く。
「ほら見ろハク、君がギャーギャーうるさく喚くから、ついにお叱りを受けることになるぞ」
「阿呆。お前が何度言っても聞かねぇからだろうが」
「はぁ?何度言っても理解しようとしないのはハクの方だろ。人のせいにするのは見苦しいぞ」
「はぁ!?お前こそ、ちゃんと最初から本気でやればよかっただろ!?何が『もう無理降参、自分の負け〜』だよ!まだまだいけただろ!」
「またその話!?自分は何度も言ってんじゃん!アレが限界!自分にはアレ以上剣を握る余裕はないってさぁ!?」
「こんなに元気なヤツが言う台詞じゃねぇんだよ!」
「こなくそ!君ってほんと石頭だよな!だから嫌なんだよねちっこい奴は嫌われるって覚えておけよバカ!」
「俺がバカならお前はど阿呆だ!」
「自分がど阿呆なら君は超絶分からず屋の大バカ者だよ」
口を挟む隙もないほどに、小気味良く言い合うふたりに目を丸める。
「あの」だの、「ええと、」だのとこぼしてみたところで、二人は気づきもせず言い合いを続けようとする。
「そもそも化け物じみた体力のハクに自分は不利だって言ってるのに、それに付き合わせようとするとか君ってほんと空気読めないよね!」
「お前に言われたかねぇんだよ!いくらでも俺を倒す隙は見つけていたくせにそれをしなかったのはわざとなんだろ!」
「そんなの勝手に決めないでくれる!?自分はちゃんと常に全力でやってるし、これからも手を抜く気はないってーのっ!」
「ならもう一度手合わせしろ」
「またその話ぃいいい!?もういいってば!お腹いっぱい!というかお腹空いてもう無理!帰れバカ!」
「おま、わざわざ来てやってる俺に向かって」
「呼んでないし、勝手に来てるのはそっちだろ!?」
「てめぇ…ッ」
「止めてください!」
「「へ?」」
「あ…」
いつまでも言い合いを続けるふたりに、たまらず大きな声を出してしまった。
きょとんとした視線を双方から受け取り、思わずしまったと口元を押さえる。
けれども、止めたのは私だ。
何か言わなくては……。
「あの、喧嘩は…その…あまり、よくない……かと…」
もごもごと口ごもるように告げれば、きょとんとしたままのふたりは次第に大声で笑いだす。
「あっはは!これは失礼した!普段のやり取りがいつもこんなもんだから、はたから見てこれが喧嘩に見えるってことを忘れてしまっていた」
「お前いつも喧嘩ごしだからな」
「目付きの悪いハクには言われたくないよ」
「んだと?」
「ああ勘弁、休みの日にこれ以上剣は握りたくないって」
銀髪の彼が困ったように苦笑して両手を上げ、私はキョトンとしてしまう。
「ぷっは!君は反応が素直だなぁ。あ、待ってやっべ、そういやこの人スウォン様だった。今の流れ全部忘れてくださいすみませんでした」
ピシッと、突然綺麗にお辞儀をするその人に、あっけにとられて間抜けな顔を見せてしまう。
それに気付いたハクが呆れたようにため息を落として、肩をすくめながら苦笑した。
「すみませんね、スウォン様。コイツ、見た目と違って脳みそ阿呆なんですよ。勘弁してやってくれますか」
「なにを!ハクほど阿呆じゃないぞ自分は!」
「つかお前、初対面だろ」
「あ、そうだ、忘れてた」
仲好さそうにやり取りを繰り返すふたりに、ほんの少し羨ましさを感じていると、不意に銀髪の彼がパッと顔を上げてこちらを真っ直ぐに見つめた。
「名を申し遅れてしまい、失礼を致しました。自分は、ラン・スイと申します。スウォン様」
凛とした声が、素直に耳に届く。
細められた眼差しがやけに柔らかくて、どきりとした。
きっと彼は、どんな相手にも真摯に向き合うのだろう。
一匹狼だったはずのハクがこうして自然で居られるように、スッと人の心へ入り込むのが得意なのだろう。
けれども確か、彼もまた一匹狼だったはず。
遠目に見たことはあったし、噂も聞いていた。
父上はラン・シュウンの子息の腕がいいと褒めていたこともあったし、全く知らないわけではなかった。
けれどもこうして目の当たりにすると、私が彼に対して抱いていた印象はがらりと変わる。
とっつきにくいと思い込んでいた。
だがそうではない。
こうして笑ってくれる。
それがどうにも、くすぐったかった。
「私とも、仲良くしてくれますか?」
考えるより先に、そんな言葉が口を突いて出た。
自分でも驚きながら、納得する。
ハクは私やヨナ姫に対して嫌にかしこまったりしない。
そういう関係は実に心地よく、共に過ごせば楽しいと思える。
そして目の前の彼。
スイの目は、不思議と柔らかく思えるのだ。
屈託無く笑うその様や、声を聞いて。
ハク同様に、肩を並べたいと思ってしまった。
私の言葉にきょとんと瞬きを返した彼に、唐突すぎただろうかとほんの少し不安になる。
突拍子もなく告げたものだから、変に思われただろうか。
ドキドキと胸が騒ぐ中、スイはやがて苦笑するように小さく笑って、そっと手を差し出してきた。
「スウォン様がそう望まれるのであれば、自分はそれに応えましょう」
差し出されたその手に、高揚感を覚える。
またドキドキとしながら、その手を取れば存外小さく、そして硬いことに驚いた。
剣を握る者の手。
きっと彼は、血豆が潰れて、皮膚が裂けても、何度も何度も剣を握ってきたのだらう。
力強さに、感嘆さえ感じて微笑む。
するとスイもやわりと微笑んで、小さく呟いた。
「貴方はあの子の大切な人だからね」
「え?」
「ふふふ」
含んだ声ではないものの、スイはどこか別のものを見るように私を見た。
細められた眼差しには、私ではない誰かが映っているように思えて、妙に焦りを覚えた。
Wあの子W。
その言葉を、やけに大切だと言わんばかりに発音した彼に頭をひねる。
そっと離された手の温もりが消えて、ほんの少しさみしい気持ちになったのは何故なのだろう。
やがて、ヨナ姫に会いに行くことを思い出す。
「そうだった。ヨナ姫のところへ行かなくてはいけないのでした」
そう言って踵を返せば、スイがハッとしたように後をついて来た。
「あ、それなら自分も一緒に行くよ。あとで来るように口うるさく言われているんだよ」
「なら俺も行く。話はまだ終わってないからな」
「はぁ!?もう勘弁してくれよ、お前ほんとしつこい!」
「納得いくまで逃さねぇ」
「この石頭!!!」
ワイワイ、ぎゃーぎゃーと、ふたりはまた小さく言い争いながら、それでも私の背に着いて歩く。
仲の良さげなその様子にまた羨ましさを覚えていると、不意にスイの方からこちらへと声が掛けられた。
「ねえスウォン様!こいつのしつこさってほんと底なしって共感してもらえませんかね!?」
「え…どうでしょう」
「あー言ってもだめ、こー言ってもだめ。言葉通じない時ありますよね!?てか通じないの!」
「おいこら、敬語が抜けて来てるぞ」
「あ、つい」
たははー!
と、愉快に笑うその様子に頬が緩む。
遠くから見ていたあの無表情が消え去っていて、私に向けられる自然な表情に心がやけに踊った。
存外、彼は話しやすかったらしい。
これからどこまで仲良くなれるだろうか。
なんて期待を抱いて、ヨナ姫に会いに向かう道中。
三人で並んで歩くのは、とんでもなく楽しいものだった。
けれども、スイのヨナ姫への溺愛加減を知らなかった私は、スイのヨナ姫の前での態度の激変ぶりに驚かされるとは思ってもいなかった。
まさか、ヨナ姫が私の好敵手になるとは……。
親しくなりたいと思った矢先に、大敵がいた。
溺愛されたいとは思わないが、わたしにもハクのように彼と肩を並べて笑いあえる日が来るだろうか。
目が合えば、スイはいたずらっ子のようにニヒッと笑い返してくれる。
きっと、叶うかもしれない。
この屈託のない彼だから、私のこともきっと。
城へ遊びに来る楽しみが増えて、明日が楽しみだと思えるようになるとは思ってもみなくて。
向けられた笑みに満面の笑みを返した。
スイと初めて言葉を交わしたのは、よく晴れた昼下がりの、風の心地よい日のことだった。
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