黎明の獅子 -akatsuki no yona-

□黎明の獅子 第三一幕
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驚くことに、自分が描いていた未来像とは遥かに見当違いな日常になってしまった。

ずっとひとりで生きていくのだと思い込んでいた。

誰にも寄り添わず、ただあの子だけを見守って生きて、死ぬ。

本当にそれを信じて疑っていなかったのに、気付けば周りには、こんなにも温もりが増えてしまった。

ムンドクが嬉しそうに笑っていた。

父上もどこか安堵したように自分を見た。

なんだ、これでいいのか。

なんて、やけに澄んだ青空を見て目を閉じる。

どこかで鳴いている鳥の声が耳に心地いい。

そよそよとそよぐ風も気持ちがいい。

いつもの特等席の東屋の柵に横たわり、足を投げ出していても誰に咎められることもない。

時々出会う陛下の臣下どもがからかいの声をこぼしていくばかり。

今日もまた、なんとものどかな日であった。


















「スイ、明日は休みだったな」

夕餉の時間。

口数の少ない父上が、珍しく箸を止めて自分にそう尋ねた。

自分たちが暮らしているのは、城の兵宿舎より少し離れたところにある、将軍地位であるラン・シュウンに与えられた少しばかり広い一戸建ての平屋だ。

そんなに古くはないが、冬になれば暖房が欠かせない程度には老朽化も進んでいて、今もまた寒さを抑えるために囲炉裏を囲んでいる状態だ。

囲炉裏の向こうで、父上は薪火をその瞳に移しながら、こちらを見ずに茶碗を見つめている。

どうしたのかと首を捻らせるも、自分はただ「はい」とだけ頷いた。

父上はその声にようやく視線をあげると、目元をわずかに細める。

「私も休みになった。久しぶりに手合わせをしないか」

「へ」

思わぬ申し出に、こちらは逆に目を丸めた。

父上が自分の手ほどきをしてくれるのは、何年ぶりだろうか。

時々様子を見に来てくれてはいたが、剣をとって交わせることはこの一年の中で一度もなかった。

「よ、よろしいんですか? せっかくの休みなのに、父上のお手を煩わせてしまうのでは…」

嬉しさ半分、多忙な父上の休日を奪ってしまう申し訳なさ半分でしどろもどろにそう言えば、父上はまた目を細めて耳に心地いい低い声でもう一度「スイ」と自分の名を呼んだ。

「たまには子と過ごしたいと思う父の思いを汲んではくれないか」

「……」

柔らかに細められたこげ茶色の優しい瞳を見つけて、喉がぎゅっとうねる。

生まれてからこの日まで、ずっと鍛錬ばかり続けていた。

これからも、あの子を守り抜くためには、足を止めることなどないだろう。

けれどもやはり、自分は父上のこともこの上なく大切なのだ。

向けられた情に心が揺るがないわけがない。

父上の休みなのに、申し訳ないなどと考えはするが、本音を言えばたまらなく嬉しいのだから。

「……わがままを言って良いのであれば、自分も、明日は一日、父上と一緒に過ごしたい…です」

「……」

ほんの少し照れてしまって、うつむきながらにそう答えれば父上は黙り込んでしまった。

そのあと、いくばくかの時間が過ぎた頃にただ一言「そうか」とこぼして、またふたりの夕餉の時間が静かに過ぎていった。

その時の声色がどうにも暖かくて、優しくて、くすぐったくて仕方なかった。

知らず口角が上がっていく。

夕餉のあと、互いに言葉を交わすことはほとんどなかったが、ただ穏やかだった。

そうしてやって来た夜更け前。

あとは寝てしまうだけだというのに、妙に胸が高鳴って仕方がない。

今からでも剣を取って父上と過ごしたいなんて考えてしまうのだから、よほど自分は父上と過ごすことが嬉しいのだろう。

父上が仕事で忙しい時以外は毎日家で同じ時間に食事を取ってはいるものの、それは朝と夜だけで、昼間は互いにそれぞれの任に就いて忙しいゆえ、なかなか話も出来ない。

こんなことがあった、そんなことがあった。

話したいことはいつもたくさんあって、けれども遅くまで仕事をしている父上の休む時間を奪いたくもなくて、思えばどこか寂しさを感じていたかもしれない。

互いに寝床に入り、夜の静けさに包まれて、離れた部屋でも感じる気配に嬉しさが爆発してしまいそうになった。

「(そっか。自分は、父上と話したかったのか)」

普段自分の気持ちに鈍感で、その時が来てようやく自分というものを理解する。

年齢は子供ではあるが、大人になったつもりで過ごしてきていた。

親を恋しがるなど、恥ずかしいとさえ考えていたのに。

楽しみが待ちきれない子供のように、胸を高鳴らせて眠るなんてどれくらいぶりだろうか。

また自然と上がる口角に苦笑を混じらせて。

明日を楽しみに懸命にまぶたを閉じた。

早く寝なくては、明日が来ない。

ああ、明日はどうやって父上と過ごそう……。

親子水入らず。

極当たりのようで貴重なそんな時間に夢を馳せて、睡魔はほんの少し意地悪にゆっくりとやってくるのだった。



















夜も明けきらぬ明朝。

朝餉の支度を整えるために早起きをして、いつも通り焼き魚と味噌汁とお漬物を準備した。

やや遅れて起きてくる父上は、いつもほんの少し気だるそうにしている。

そういえばこの頃は、父上はあまりお酒を呑んでいない。

ムンドクが王の命により空都を離れていて、なかなか会いに来ないのもあって、酒を酌み交わす相手が居ないからか、父上はいつも必ず取っていた晩酌をしばらくやめてしまっていた。

今度熱燗でも作って出してみようか。

さすがに朝から呑ませるわけにはいかないため、今夜にでもと考えて卓を飾る。

質素だけれど、長年重ねて来た料理は見栄えがいいとは言えないものの、味には自信があった。

父上とふたり、時々ムンドクも交えて食事をとれば、なかなか言葉をくれはしないけれど、父上は味を楽しむようにじっくりと食事を取ってくれる。

ムンドクは手放しで褒めちぎってくるが。

それが嬉しいし、次は何を作ってみようかとも楽しみを覚えたりする。

朝は単純な食事を心がけて、夜は出来る限り手を込ませて作って食べてもらう。

そんな日常はいつから始めたのか覚えていないけれど、もう随分と繰り返してきたし、これからも続けていくのだろうと漠然と思っている。

こんな時にしか、父子で過ごすことが出来ないのだから。

互いに「いただきます」と手を合わせて静かに食事を取り、自分は少し気が急いでいるからか、いつもより少しだけ早く食べ終えてしまった。

そわそわと落ち着かないのを悟られはしないだろうかとどきどきしながら、それでも早く父上と剣を合わせたくて落ち着かない。

そんな自分を、父上は何も言わずにいるが気付いているのだと思った。

時々向けられる視線に、どこか面白がるような色を含んでいるのだから。

それでも構わないから早く、早くと、父上がゆっくりと食べ終えた食器をすぐに片付けに走る。

皿を洗っている背後で、わずかに父上の笑う気配がしたのは気のせいだろうか。

いつもよりちょっとだけ乱雑に食器を片付けて、自分はすぐに父上の元へと向かった。

すでに簡易的な武具を身にまとい、稽古用の剣を腰に差した父上の姿を見つけると、自分もまた慌てて身支度に入る。

「ゆっくりでいい」

ガチャガチャと慌てる自分に、さすがに父上も苦笑を禁じ得なかったのか、また面白がるような目を向けてそう笑った。

あまりはっきりと笑ってくれる人ではない。

ムンドクのおおらかな笑い方とは全く違って、父上はいつも静かに笑う。

声を上げることなく、ただ喉の奥を小さく揺らすようにくつくつと笑うのだ。

いつぶりに見たかわからないその笑みにまた胸が高鳴り、思わずこちらもにへらと笑ってしまった。

そんな自分を見て、父上は不意に息を詰めるように目を細めた。

その表情がどういうものなのかわからず、自分が首をひねれば父上もまた小さく首を振った。

「行こう」

短く告げられた声に大きく頷いて、自分は剣を二本手に持ち家を飛び出した。

その後の時間は、どんな風に言葉にすればいいのか。

口にするのは難しい。

ただ、ただ、楽しくて、父上は相変わらずお強く、気高く、かっこよかった。

手を合わせている間、どこが甘いだとか、どこが優れているだとか、父上は根気よく教えてくれた。

まだまだ未熟であることはわかっていたから、それがたまらなく嬉しくて、そして今この時だけは父上を独占できている気がして、幸福だった。

そんなに長くはない時間。

数刻ほどの時間ではあったが、父上は自分だけを見てくれた。

「スイ、大きくなったな」

ふいに掛けられた言葉。

そりゃあ、歳も歳だし、いつまでも小さいわけではない。

なんならそこらの同年代の子たちに比べれば、自分は背が高い方だ。

それはおそらく、父上ゆずりのもの。

父上の灰色の髪はほんの少し薄くなって受け継いでいるが、自分の容姿は父上ゆずりのものが多い。

「成長期ですから、まだまだ伸びますよ」

得意げにそうこぼしせば、父上はゆるりと目を細めて自分の頭へそっと大きな手のひらを乗せた。

「……背もそうだが、随分と成長した。お前はいつも懸命だ。そのことを、私は心から誇りに思う」

「………」

息を、飲んでしまう。

こうして面と向かって言葉をくれたことなどなかったのに。

くれることも、ないと思っていたのに。

父上は慈しむように自分を見下ろすと、そのままゆるゆると頭を撫でてくれた。

それだけで、胸が熱くて苦しくなった。

認めてくれている。

こんなにも不甲斐ない自分だけれど、父上はそれでも認めてくれているのだ。

ムンドクは無理だとずっと言っていた。

女の身でありながら、男たちの中で身体を鍛えぬくのは険しすぎると。

けれども自分は父上に認めてもらいたくて、懸命に応えようと必死になって剣を握ってきた。

肩の荷が、どこかへ吹き飛んで行くような気がした。

重くて仕方なかったものが、父上の言葉でどこまでも軽くなる。

「スイ、お前はお前の思うように生きろ。父として私がお前に出来ることはそうない。王のために生きろと今日までお前を鍛えてきたが、私はお前の幸せだって願っているんだ」

ぽふ、と。

頭を撫でていた父上の手が肩へ降りた。

ぎゅっと掴まれて、どう応えたらいいのかわからずに口をパクパクとさせていれば、父上はまた微笑んだ。

「自然体でいい。いつかお前がなにもかもやめたくなったなら、その時は、やめてもいいんだ」

言葉を失った。

父上の瞳にはどこまでも暖かな色が灯っている。

見守るように、優しいその色に、何か焦燥感さえ覚えて。

「……父上、自分は…」

震える喉で、父上を呼んだ。

真っ直ぐに向けられたその眼差しには、やはり暖かさが携わっている。

まだ、やめたくない。

なにもやり遂げてなどいない。

父上との、唯一の約束なのだ。

「父上、自分は。限界だと思えるその日までは、このままで居ます。それは父上のためでも、あの子のためでもありません。自分はいつだって、自分のために生きています。こうして父上と共に過ごせるのも、あの子と共に過ごせるのも、今の自分だからなんです。だから、辞めたくはないです……父上、自分は、今が一番幸せなんですよ」

思いの丈を綴った。

父上はほんの少し目を丸めると、やがて眉を少しだけ下げて笑ってくれた。

また、ただ一言。

「そうか」とこぼして。

この時の父上の手のひらはどこまでも暖かくて、まるで陽だまりの中に居るみたいに心地が良かった。

昼過ぎを迎えた頃に家へ帰って、二人でまた他愛ない話をとりとめもなく話して。

自分のこの頃の出来事。

ハクやスウォン様や、ヨナ姫の話を聞いてもらった。

いつの間にか周囲に出来ていた友という関係が、思いのほか心地のいいものだと話せば、父上はまた「そうか」と笑った。















穏やかな時間。

親子水入らずの1日はあっという間で、夜が来るのが少し寂しかった。

けれども、今日という日をふたりで過ごせたおかげで、自分の中にある不安やわだかまりは溶けて消え去ったように思える。

自分のしたいように、生きていい。

父上の言葉は羽を与えてくれたようにこの身を軽くさせ、自分は気負っていた気持ちを解くことが出来た。

この先、何があっても自分らしくいられるように。

父上の暖かな眼差しを何度も思い出して、夜は眠りに着いたのだった。






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