黎明の獅子 -akatsuki no yona-
□黎明の獅子 第三五幕
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ヨナやハクを前にして、スイはいつも通りだった。
最初は拍子抜けしていた様子の二人だったが、やがていつものスイに安堵したように、ヨナもハクもこれまで通りスイと接するようになった。
他愛ない話をして、小さな言い争いをして、まるで何事もなかったかのような空気をまとって。
私だけが、取り残されたような気持ちになる。
いや、違う。
違和感ばかりが胸を巣食う。
黄昏迫る空。
橙色の夕日が西から差し込んできた時間。
ヨナは従者の迎えが来て、夕餉を取るべく連行されていった。
もっと私たちと遊んでいたいとわめいていたが、それをスイがやんわりとなだめて、見送った。
やがてハクも帰って行き、スイも帰路に着くと私に手を振った。
私もまた、与えられている室へ行けば食事が用意されている時間で、ぼんやりと室へ戻らなければと思考する。
けれども、そう思うのに。
どうしても私はこの東屋から出て行くことができなかった。
スイもまたそれに気付いて、心配するように私の顔を覗き込んできた。
「スウォン?ご飯食べ逃しちゃうんじゃない?」
「……」
「……スウォン?」
黄昏に染まるスイの銀の髪は、まるで鏡のように陽の光を写し、黄金に変化している。
素直に綺麗だと感じた。
触れてはいけない宝玉のようで、儚くさえ見えてしまう。
このままスイが夕陽とともにどこかへ消えてしまいそうで、怖くなった。
尋ねるスイに何も言えず、その隣に座りなおす。
「…スウォン、自分も帰るよ?」
「話しませんか」
「え…?」
「………」
じっと、深い深海の色を写すスイの瞳を見つめる。
その瞳は大きく見開かれて、やがて薄く細められた。
射抜くような視線。
これまで穏やかだったその表情は、途端に冷たい温度を宿していく。
「…話って、なにを?」
あくまで穏やかに、スイが私に問いかける。
けれども声に乗せた温度は冷めたもので、必要以上に深入りするなと牽制をかけているようにも聞こえた。
スイはそうやって、何かから私を遠ざけようとしている。
「私には、今日のスイの笑顔が嘘のように思えるんです…」
「は?」
随分と低い声が返ってきた。
ともすれば、怒らせたかもしれない。
どきどきと怖がる心臓に苦しくなりながら、それでも私は真っ直ぐにスイを見つめた。
「 スイが笑っているのは嬉しいことのはずなのに。どうしても、今日は笑っているスイを見ると、胸がもやもやするんです…」
「………」
じっと、スイの目が私を静かに見据える。
ひどく冷めたその視線に、おののいてしそうになる。
「意味が、わからないな」
穏やかに笑みを浮かべて、スイがまた冷めた声でこぼした。
突き刺さるようなその声に、また胸が苦しくなる。
これ以上踏み込むな。
そう言われたようで、悲しい。
「…私の勘違いなら、聞き流してください。怒っても構いません…。私はスイに、我慢して欲しくないんです」
「我慢?自分は別に何も我慢なんかしてないよ」
肩をすくめて、スイがいつものようにおどけて笑う。
ならどうして、スイの声は楽しそうじゃないのだろう?
「…本当にそう思ってるんですか」
「くどいよ」
問い詰めた私に、スイがついに不機嫌さをあらわにして声を低くした。
「たとえ我慢していたとして、それをスウォンに心配されるいわれはない」
「……!」
真っ向から、お前は要らないと言われた気がした。
あんなにも近しく感じていたのに、全部私の独りよがりだったのだろうか?
突き付けられた言葉に、息が詰まる。
だけど何よりも、ひとりで大人になろうとしてしまっているスイに気付いて、どうしようもなく悲しくなった。
違うとわかっている。
こんなのは、間違っているとわかっている。
けれど、止められなかった。
スイへと募らせていた情は、友情という名の抗いようもない想いだ。
そばに居たい。
もっと近くへ行きたい。
親しくなりたい。
もっと深く。
そんな想いばかりが募って、共に笑っていたくて。
考えれば考えるほど、悲しい。
「………なんで、スウォンが泣くの」
どこか苦しそうに囁かれた言葉。
滲んだ視界では、スイがどんな表情をしているのかがわからなかった。
それでも向けられた声が少しだけ困ったようなそんな声で。
椅子に浅く腰掛けていたスイは、深く息を吐くと背を柵へともたれさせた。
「ごめん…泣かせるつもりはなかった」
「……っそんな言葉じゃないんです!」
「え、スウォ…」
「私が聞きたいのは、そんな言葉じゃないんです…っ。私がスイに嫌われたっていい。どう思われたって構いません!」
「自分がスウォンを嫌うわけ…」
「私はただ!スイには…スイのままでいて欲しいんです…っ」
「スウォン……」
「笑いたくもないのに笑わないでください。泣きたいなら泣いてください。さっきみたいに怒ってくれたっていい、スイには、私の前では、なにも我慢なんかして欲しくないんです……」
自分で何を言っているのか、思考が錯乱してわけがわからなくなる。
けれども、吐き出せた。
ようやく、自分でも理解出来た。
私がスイに笑って欲しくなかった理由。
スイは本当に楽しい時。
お腹を抱えて転げ回るような、そんな見ていて気持ちのいい笑い方をしてくれる。
怒った時は威勢良くハクと言い合うし、ヨナを目の前にすれば華が咲いたように嬉しそうに笑う。
今日のスイはそのどれもが嘘くさくて、薄ら寒く感じた。
踏み込むべきじゃないとわかっていたけれど、どうしても私の中でスイが本心で笑っていないのが許せなかった。
「スイはラン将軍が大好きですよね。ラン将軍の話をする時、スイはとても嬉しそうでした。きっと誰よりも尊敬していて、誰よりも大切だったはずです。それなのに、何もなかったみたいにしているのは、おかしいです」
「これ以上、どうやって悲しめばいいって言うの……?」
「……っ」
瞼を擦り、視界を鮮明にさせた時。
スイの表情は悲痛な色を写して私を見ていた。
ほの暗く揺れる蒼海の瞳に、呼吸を奪われる。
「悲しんだよ。あの日から、毎日、ずっと……。だけど考えたって、思い返したって、どうしてもわからないんだよ…」
くしゃくしゃに歪んでいく表情。
スイの綺麗な瞳から、音もなく雫が溢れていく。
「父上がどうして最後に私を側に置いてくれなかったのか。どうして私は父上のことに気付いてやれなかったのか、どうして、私は今になっても父上の考えが理解出来ないのか、どんなに考えてもわからない……。父上が居ない家でひとりで居ると、苦しくてたまらない…。父上の声が聞こえない毎日が、どれほど虚しいものなのか、どうすれば耐えられるのか、考えたってひとつも答えを見つけられないんだよ…!」
しゃくり上げるように、スイが喉を鳴らした。
「泣いたって戻らなかった。父上はもう居ない。それを理解しているのに、どうしてまた泣けって言うの?これ以上悲しんだって、父上はもう笑ってくれないのに……」
吐き出されていく心に。
ようやく、スイが抱えている想いが見えた。