黎明の獅子 -akatsuki no yona-

□黎明の獅子 第三八幕
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晴天。

寒くなって来たこの土地には風を遮る木々が少ない。

吹き抜ける寒風があれば否応なく体温を奪っていってしまうものの、今朝のように天気が良ければ幾分かは寒さも和らいで感じられる。

けれどもそれも、健康な人間だけが感じられる僅かな心地よさだ。

夜が来れば暖を取るべく火を焚いて、寒さから逃れる術を持つものだけが許される安寧。

そしてそれは、この土地のほとんどの人間が得られないもの……──











「このくらいかな」

どさりと足元に下ろした荷物はそう多くない。

けれど、それがどれだけの力を持っているかを俺は知っていて、それがどれほど無力かも知っている。

これはこの土地の人達の僅かな生命線のようなもので、こんな場所だからこそ手に入れるのが難しい代物だと言うことも。

呼吸をする度に白い息が舞い上がるような早朝、俺は荷車に詰め込めるだけの荷物を詰め込み、誰にも気付かれないうちにこの場を立ち去ろうと歩き出す。

だが、朝の早いイクスに声を掛けられてしまった。

「ユン君、おはよう」

「……おはよう。皆は?」

「まだ寝てるよ」

「そう、よかった」

皆がまだ寝ていると知って安堵してしまうのは、こんなことがバレてしまえば厄介なことになりかねないから。

俺は大きな白い息を吐き出して、止めていた足を再び動かした。

「村へ行くのかい?」

「うん。自己満足だし、偽善だけどね」

荷車の荷物を見て察したイクスが、寒そうに腕を手のひらで温めながら聞いて来て、俺は苦笑しながら肩をすくめる。

一時凌ぎにしかならない……実際には、なんの力にもなれていない偽善行為。

本当に救えるわけでもないのに、悪戯に手を貸して期待を持たせてしまうだけのあやふやな救済。

そんなもの、俺からすれば思わせぶりで嬉しくなんかないもので、でもどうしても無視は出来なくて、自己満足の為だけにやっているに過ぎない偽りの善行だ。

それなのに、イクスは唇の端をゆるりと緩めると、俺に向かってはっきりと「違うよ」と告げた。

「ユン君は優しい子だよ、偽善なんかじゃない……」

寒いはずなのに外へ出て来て、イクスはそう言って俺の身体を抱き寄せぎゅっと胸の中に閉じ込める。

じんわりと温度が伝わって、ふとすれば泣き出しそうになるくらい暖かい。

この温もりを知らずに生きている人がどれだけいるのか……。

そう考えるだけでも胸がちぎれそうなほど痛むのに、何もしてやれないのだから自責したくなる。

なのに、イクスはそんな俺を見抜いて『優しい』と笑ってくれる。

「着いて行ったら、だめ?」

「だめ。イクスはここに居て」

「どうしても?」

「俺がちゃんと帰ってくるの、待ってて」

「……わかった」

ふっと緩められた腕の力。

ちらりと下から顔を覗きみれば、いつも髪で隠れている表情は穏やかに柔らかく、俺の目を真っ直ぐ見つめてくれていた。

それだけで、いい。

「行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。気をつけて」

「うん」

いつも通りのやりとり。

見送るイクスに手を振って、俺は寝ている皆を背に残し家を後にした。











────────────
──────・・・・・・
・・・イクス視点・・・




「あれ、いつものことなの?」

不意に背後から掛けられた声。

柔らかなその声は、あまりにも耳に心地よく。

また、どこか不安にも感じられるものの、あらがいようもなく慈しみを覚えてしまうものだった。

「やはり起きていましたか」

「愛弟子が朝からひとりで何かしてたら、師匠としては気になるよねぇ」

「ふふふ。ユン君は本当に、いいお師匠様を得られたようですね」

「自分も、自慢の弟子を得られたよ」

クスクスと楽しげに笑う声を聞けば、なぜか胸がほわほわと熱くなる。

それはこの人が持つ不思議な力の一つなのかもしれない。

呑気にあくびを噛んで、私とそう変わらない身長のスイさんがこてんと小首を傾げさせた。

「着いて行ったら怒ると思う?」

「ユン君の性格ですから、怒るでしょうね」

「でも、許してくれそうだよね」

「それも、ユン君の性格です」

「ははは、さすが家族だ」

ふふふ、と。私の真似をする様に笑うスイさんに胸が締め付けられる。

「家族……ですか」

しみじみと、その言葉を口にすればどこかくすぐったくて、切なくて、泣き出してしまいそうになる。

スイさんはそんな私を柔らかに見つめて、静かに小さく頷いた。

「家族だよ。こんなにも通じ合ってる。こんなにもお互いを思い合っているんだから、血の繋がりなんかなくともね」

どこか遠くを見つめるようにして私の目を見るスイさんに、ああ……と小さく息を飲む。

彼女には、思い出になった大切な家族が居るのだと。

触れられない、遠くの方へ離れてしまった想い人。

「スイさんにも、居るんですね」

今でも大切な家族が。

微笑めば、スイさんもまた微笑みを返して小さく頷いてくれた。

「会えなくなっても、見守っていてくれるんだろうかと思えば頑張ろうって思えるもんだね。イクスはきっと、ユン君の……自分にとっての父上のようなもので、そしてそれは、自分とは違ってこれから幾らだって手を伸ばせば触れられる存在なんだ」

はぁ……と、スイさんもまた小さな息をつき、白い霧が空へ上がっていく。

「身体を大事にしなきゃだめだよ。イクスはあの子にとっての全てなんだから」

「……肝に命じます」

見ぬかれていたらしい。

ユン君が心配で、私だけなにも出来ないのがもどかしくて、せめて側で見守らせてはくれないかと考えていたこの心を。

「まあ自分は、イクスの気持ちがすごくよくわかる」

なんて言って、スイさんが大きく両手を上げて伸びをし私をにやりと見た。

「だから代わりに自分が見てきてあげましょう。ユン君が歩む道がどんなものなのか、イクスが心配に思うあの子がどれだけ頑張っているのか、見届けてあげることにします」

悪戯のようにわざと敬語を使って、スイさんが無邪気に笑う。

その蒼い瞳の奥に滲んでいたのはどこまでも深い温かさで、自分の心の中を読まれたようなくすぐったさを感じるものだった。

素知らぬふりをしてその実、彼女は多くのものを見落とすことなく見つめているのだろう。

「……敵いませんね。貴女には全部お見通しというわけですか」

「イクスだけの専売特許じゃないよ。人を思う心ってのは、外から見ると割とわかりやすいものだったりするからね。これくらいは自分でもわかる」

「スイさんは強いんですね」

「そうあればいいと常に願ってるよ」

くすくすと、またスイさんが柔らかに微笑む。

重い荷物を下ろして肩の力を抜いたような、そんな笑みだ。

「貴女にも、心から貴女を想う人が沢山出来たのですね。いい顔をするようになりました」

「ははは。まだ胸中複雑なものが多いけどね。それでも、自分はこんなにも救われた気持ちになってる。お姫さんの言葉で後ろばかり見るのはやめることにしたんだよ」

「叱ってくれる存在が居るって、すごく幸せですね」

「本当にね」

ちらりと家の方を見遣り、スイさんはこれまで見せたことがないほど柔和に微笑んだ。

きっとヨナ姫を思い出しているのだろう。

どこまでも幸せそうなその笑みに、私の胸は酷く締め付けられる。

この先彼女に待ち受けるありとあらゆる困難が、どれほど彼女を傷付けてしまうのか予想は出来ない。

優しい彼女だからこそ、ヨナ姫を心底想うスイさんだからこそ、この先どこまでも道は険しく厳しいものになっていく。

それを口にすることは出来ず、私は後ろめたさを感じてほんの少し俯いてしまった。

けれどもスイさんはそんな私の心すら見抜いているのか、また肩を竦めて苦笑混じりに息をついた。

「イクスが一番最初に教えてくれた言葉、自分は忘れてないよ。この先、どんなに険しい道だろうがあの子を守ることをやめないと誓ったし、もしも自分の中にある何かのせいで誰かを傷つけてしまいそうになったら、その時は……」

言いながらふっと遠くを見つめて、スイさんが揺るぎない眼差しで大きく息を吸い込んだ。

「ハクが止めてくれるって信じてる」

深い信頼。

ほんの少し羨ましくも思えるような、絶対的な絆。

そうか……と、私は堪らず笑い出してしまった。

「貴女は本当に強くなられたんですね。自身の弱さも飲みこんで、友を得て、生きる理由が増えた。それだけで、貴女は前を向けるのですね」

「そんな大層なものじゃないけどね。さて……」

んんっと、また小さく伸びをしてスイさんが一歩足を進める。

「そろそろ行かないと追いつけなくなるから、自分はもう行くよ。ハクが起きてるみたいだけど、先に行ってるって伝えておいて。多分あいつも着いてくるだろうから」

「おや、そんなことがわかるのですか?」

「自分、昔から人より少し気配に敏感でね。後はよろしくねイクス」

「はい。気を付けて」

私に向かって軽く手を振るなり、スイさんはユン君が去っていった道のりを小走りで追いかける。

本当に、ユン君は良い出会いをしてくれた。

朝露のようにそっと寄り添うような、そんなスイさんの在り方はそれだけで力を与えてくれるようだった。

「家族……。私は、ユン君の家族になれていたんですね……」

ひとりごちた言葉に、胸がまたくすぐられるように暖かくなる。

どうか、この先彼女らに幸多からんことを。

綺麗事ばかりではない彼女の言葉だからこそ、どんな言葉も胸に響くのだ。

ユン君を守ると誓ってくれたあの日から、彼女はきちんと彼を守り抜いてくれている。

「スイは先に行ったのか」

背後からかけられた声に、私の唇の端が小さく上がる。

「ハクさん、おはようございます。どうせ着いてくるだろうと言っていましたが、やはり追いかけるのですか?」

「今さっき姫さんが起きた。話したら着いて行くんだとよ」

「そうですか。さすがスイさんですね」

「どうせ全員行くなら一緒に行きゃあいいのにな?」

ふん、と鼻を鳴らして、スイさんが消えた方へ視線を送り伸びをするハクさん。

けれども彼もきっとわかっている。

「スイさんは、私との約束を優先してくれたみたいです。本当に、頭が上がりません」

「この頃じゃユンのこともすげぇ可愛がってるからな。気にすんな」

「ハクさんも、ありがとうございます。彼を……よろしくお願いします」

「おぉ」

本当に、良い人たちに巡り合えた。

神に何度お礼を言っても足りないくらいに、私はユン君のことを安心して見送れるようになった。

私はきっと、この先も彼の帰りを何度でものんびりと待つことが出来る。

全部、彼らのおかげで。

スイさんという約束を守ろうと動いてくれる彼女のおかげだ。

「今日はいい天気だなぁ」

ぼんやりと呟いたこの声は、長閑な風に乗り遠くへ運ばれて行く。

やがて賑やかになった家を振り返り、私はまた笑ったのだった。




 
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