Season1/Novel 3
□夏の夜の夢
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プールサイドに等間隔に置かれたキャンドルの炎が水面に映って、揺らめいている。水底から青い光で照らされたプールは、紫がかった夜の空に浮かびあがり、キャンドルの淡いゆらぎとあいまって、幻想的な雰囲気だ。
今夜のパーティーは、フィリップ城のプールを囲むテラスで開かれている。この時期のパーティーは、涼を求めてプールサイドで開催されることも珍しくはないが、今年は例年になく暑さが厳しく、高緯度に位置するフィリップであっても、夜の気温が30度はくだらない。
集まった高貴な方々は、先ほどまで城内の劇場で上演されていた舞台をご覧になっていた。アフターパーティーでもなお興奮冷めやらぬ皆さまの熱気が、なおさらプールサイドの温度をあげているのかもしれない。
「舞台はいかがでしたか」
私は、テラスの片隅で肩を小さくしている彼女に声を掛けた。
彼女は、ウィル様の「留学中はできるだけ見識を広めたほうがよい」とのご配慮で、今夜、我が国でもトップクラスの劇団が演じる舞台に招かれた。ウエストの後ろに大きなリボンとピンクのバラのモチーフが付いた真っ白なドレスも、そのバラとそろいの色の靴も、もちろん、ウィル様が自らお選びになったものだ。
私の声に、彼女が「あ、クロードさん」と、眉尻を下げ、ほぅと安堵の息を吐いた。日ごろ、マナーがなっていないと叱りつけてばかりいる私に隙のある表情を見せるとは、よっぽど気の張った時間を過ごしたらしい。
それもそのはずだ。招待客は名のある家の者か、財界人か、政治家か、芸能人か、アスリートかで、彼女にとっては液晶画面を通じてしか見ていないであろう面々。緊張もいかばかりか。
私は、押していたワゴンからグレープフルーツジュースが入ったグラスを選んで差し出した。今はとても、アルコールをあおる気分ではないだろう。
彼女はグラスを受け取ると、こくんと一口、ジュースを喉に送り込んだ。そしてもう一度小さな息を吐くと、今度は伏し目がちにしていた視線をパッと上げた。
「『夏の夜の夢』、はじめて観ました。シェイクスピアって、『ロミオとジュリエット』とか『ハムレット』みたいな悲劇を作る人ってイメージがあったのですけど、喜劇もあるんですね。おもしろかったです。妖精のパックが間違えてほかの人に惚れ薬を塗っちゃったから、もう大変なことに……」
シーンを思い出したのか、彼女は手のひらを口元に当てて、くすくすと笑い出した。
まったく、貴女という人は。
さっきまで所在なさげに、今にも泣きそうな顔をしていたのに、あっという間に笑顔に早変わる。
私は、思わずほころんでしまいそうな自分の口角に精一杯の自制を施し、真一文字に引き締めた。
ころころと表情を変える彼女を、見ていて飽きない、いや……ずっと見ていたいと願いはじめたのは、いつのころからだったか。
「ねえ、貴女! こちらにいらっしゃいよ」
甲高い呼び声に顔を向けると、フィリップ議会の長の娘でいらっしゃるご令嬢と、取り巻きの女性たちが手招きをしている。
本来なら、高貴な身分のかたが気にもかけないであろう彼女に、敢えて声を掛けた理由を挙げるなら、ただひとつ――悪意。
観劇の幕間に、ウィル様は彼女を呼び寄せ、ずいぶんと長い間談笑なさっていた。親し気なその様子に、彼女の素性や、ウィル様とのご関係について、皆が声を潜めて憶測をするのも無理はない。ひそやかに、したたかに、王妃の座を狙う者にとって、ライバルは、あらゆる手段を使って蹴落とすだけの存在でしかないのだ。
しかし、彼女は素直に招きを喜んだ様子で、女性たちに会釈まで返すと「じゃあ、ちょっとお話してきます」などと私に笑みを向けた。
本当に、お人よしにもほどがある。
華やかで上品ぶった社交界は、ただの美しいヴェール。
剥がしとれば、裏にはいつも、黒すぎる陰謀が渦巻いている。
貴女は、何もわかっていない。
「……気をつけなさい。けっして油断はしないように」
私は、腰をたたむと、彼女の耳にそっと忠告を落とした。
彼女はあっという間に令嬢たちの輪の中心になった。
私は、談笑する紳士淑女の間をワゴンで押しながら往き、カクテルやワインを勧めながらも、耳の神経はすべて彼女を囲む輪のほうに向かわせた。
矢継ぎ早に浴びせられる質問と、丁寧に答える彼女の声が届く。
「とても素敵なドレスね。それに、ジュエリーも。このブランド……すごいわ。なかなか身に着けられるものじゃなくってよ。お目が高いのね」
「いえ、これは、今夜のためにウィル王子が用意してくださったもので、私が選んだわけでは……」
「ねえ、あなた、ご出身は? お父様は何をなさっているの」
「ええっと、私は一般人ですので、父も、特に」
彼女は笑顔を崩すことなく、首を振っている。
こんなにも嫌みを隠した問いにも関わらず、だ。
「そもそも、どうしてウィル様とお知り合いなのかしら?」
陥れるためのネタを集める質問は、果てがない。
「それは、私のアパルトマンが火事で焼けてしまって。困っていたら、ノンちゃ……ノーブル様が、ウィル王子にお口添えをしてくださって、フィリップ城でお世話になることになったんです」
まずいな、と私はプールサイドに近い場所にいる彼女たちに目を向けた。
ノーブル様の名前まで出てきたところで、囲みの輪がピリリとさらに殺気を濃くしたことに、彼女はまったく気づいていない。
もともと、律儀で正直すぎる性格なのだ。
本来称賛されるべき気質だが、この社会では命取りになる。
Sometimes it’s necessary to fib a little.
適当に嘘でもついていればいいものを。
「そうだわ。せっかく、私たちに新しいお友達ができたんですもの。写真を撮りましょう」
ご令嬢が侍(はべ)る執事に、顎をあげて指示をした。
「プールのライトアップが入るように撮ってちょうだい!」
プールサイドにまとまるように、令嬢と取り巻きたち、そして彼女が集まる。
「もう少しそっちに寄ってくださる? きついの」
必要以上に密集して、肘を押しあう様子が不自然すぎた。
「!!」
あの者たちの浅はかな考えなどわかっている。
彼女に恥をかかせるつもりだ。
私はワゴンを放置して足早にプールに向かった。歩みはすぐに、駆け足になる。
っ……間に合わない。
令嬢の目くばせを合図に、取り巻きの一人が彼女の腕をつかんでプール側に引いた。
「わ……きゃっ!」
高いヒールを履いた彼女の身体は、態勢を立て直す間もなく、背中からプールへと落ちていく。
派手な水音に、その場の皆が振り向いた。
「た、助けてっ!! 私、泳げなっ……!!」
彼女は、すぐに水面から顔を出すと、両手を挙げ大きく振った。
「ふふっ、ご覧になって。足がつくのに、あの慌てよう」
「いい気味よ。身分もわきまえず、ウィル様に近づこうとするから」
危害を加えた当の令嬢たちは、口元を隠して笑いあっている。
人をあざ笑って、陥れて、なにが、高貴な生まれだ。私は奥歯をぎりっと噛みしめた。
……俺の大切な女性を辱めて。
やがて背の立つ高さだと気づいた彼女は、動きをハタと止め、立ち尽くした。
「あ……」
当然のごとくドレスは濡れ、美しくまとめた髪は崩れて腰に落ち、前髪からはとめどなくしずくが垂れている。
蒼白だった顔をみるみる赤くし、恥ずかしさか悔しさかに唇を震わせ、好奇心に満ちた視線と嘲笑を一身に受ける彼女は、身じろぎ一つしない。
「……まったく、世話のやける人だ」
ため息と共につぶやいて、私はプールに両足を入れた。腰までの水を両手でかき分けながら彼女の元に行って、横抱きに抱き上げる。
刹那、彼女の蹴り上げたつま先の水滴が、夜のプールにきらきらと光の粒を散らした。
「クロードさ……ん?」
「何をしているのです、貴女は。だから、気をつけるようにと申し上げたでしょう」
「だ、だって……クロードさん、クロードさ……」
あとは涙声になって続かない。
彼女は、私の首筋に顔をうずめて肩を震わせた。
見ていましたよ、私は、ずっと。
貴女は、何も悪くない。
危うく発してしまいそうになった言葉を飲み込む代わりに、私は彼女を抱く腕を強くする。
「どうした。騒がしいな」
そのとき、薄い夜の闇に涼やかに通る声がした。声の持ち主は、頭を下げた人々がその進路を譲ってできた道を進んで現れる。わが主、ウィル様だ。
「どういうことだ?」
ウィル様は片眉を引き上げた。
プールの中で、服を着たままの彼女を、同じく服を着たままの私が抱き上げている光景は、明らかに尋常ではない。
私は目礼をした。
「申し訳ございません。一部のかたの悪ふざけが過ぎているようでございます」
私は非難の意思を十分に込めた視線を令嬢たちに向けた。
ウィル様は私の視線を追うと、すべてを察してくださったのだろう、鋭い青の目線で彼女たちを射抜いた。
「ふうん……感心しないな」
さすがにウィル様に目をつけられてしまっては王妃の座どころの話ではない。令嬢たちは逃げるように退散していく。おそらく、令嬢たちに今後の招待状は届くまい。
会場には会話が戻り、和やかなパーティーが続けられた。
私は、彼女を抱いてプールからあがり、ウィル様のあとを行った。彼女はといえば、「お見苦しいところを」とか「もう下ろしてください」とか顔をうずめたまま言ってくるのだが、無視一択だった。
このうえ、転ばれてもしたら目も当てられない。
「それにしても、お前が彼女のためにプールに飛び込むなんて……面白いものをみた」
ウィル様が、おかしくてたまらないとでもいうように笑った。
「笑い事ではございません、ウィル様」
私は無表情にお言葉を返す。けれどウィル様は一向にお気に留めるご様子でない。
「もちろん、笑い事じゃない。彼女を着替えさせなければ、風邪をひく」
「そうではなく」
「わかっている。早く行け」
ウィル様は私に道をゆずると、片手で追い払うようなしぐさをなさった。
いかなる場合でも主のもとを離れることは執事として許されないが、今ばかりは仕方ない。
私は、ウィル様にお辞儀をして、再び城に向かう小道を歩き出した。
いくらか涼しさを含んだ夜風が、壁に絡み咲くクレマチスたちを揺らしている。
「クロード」
数歩進んだところで、お声に呼び止められた。
「はい」
彼女を抱えているとはいえ、背中を伸ばして返答する。
「……パックの惚れ薬が欲しいのは、お前もじゃないのか?」
振り向けば、わが主は、首をかしげて、意味深に笑っておられた。
今宵観た舞台「夏の夜の夢」で、妖精パックがライサンダーのまぶたに塗った惚れ薬。瞳を開けたとき、一番最初に映った者に恋をするという、不思議の媚薬。
腕の中には、双眸を閉じたまま身を固くしている彼女がいた。
このまぶたに媚薬を落とし、その目が開かれたとき、最初に私が彼女の瞳に映ったのなら。
私を呼ぶ軽やかな声に、私を見つめる漆黒の瞳に、恋という鮮やかな色が載るというのか。
私だけを一心に慕う彼女を、抱きしめて、キスをして、だれにも傷つけられないように守って、慈しんで。
私はそれを望んで……いる?
まさか。
私は左右に首を振った。
ほんのひととき、思考をよぎった、くらりと甘やかな幻想。
それは、——―夏の夜の夢。
--fin
2019/8/11