「あ!テツヤ〜!!」
「走ったら怒りますよ?」
「うっ!? 」
今日の政を終わらせた鞘は、廊下の先に大好きな黒子の姿を見つけたので走って抱きつこうとしたら……先に彼に釘を刺されてしまった。
まるで、昔母上に怒られた時のようなオーラを黒子に感じた鞘は、少しおどおどしながら、ゆっくりとした足取りで黒子の前まで来ると立ち止まる。
「…テ、テツヤ。わしは、キチンと歩いてきたぞ?」
鞘が歩いてくるのをジッと見守っていた黒子に、鞘がおずおずと話しかけた。
すると、彼はようやく安堵の溜め息を吐き出すと、微笑みを浮かべて鞘を優しく抱き締める。
「お疲れ様です、鞘」
「うん…ただいま、テツヤ」
鞘も黒子を抱き締め返す。
……臨月間近で膨らんだお腹は重いが、テツヤの温もりを逃したりなどしたくなくて、私は更に彼に密着した。
「…鞘、少し力を弛めないとお腹の子に悪いですよ?」
「……うん」
少し寂しいとは思ったが、テツヤを心配させたくはないので仕方なく体を離す。
そんな鞘の心情を察した黒子は、逆に鞘の手をしっかり握りしめると、落ち込む鞘の額に軽く口付けた。
「此処より部屋の方がゆっくり出来ますから、一緒に行きましょう?」
「…うん」
鞘の顔を覗き込むようにして優しい微笑みを浮かべる黒子に、鞘は頬を赤く染めて頷いた。
鞘と黒子が部屋に戻ると、そこには鞘の部屋子の桃井が待っていた。
「あ。鞘ちゃん、お帰り〜」
「ただいま、桃井」
「お疲れ様です、桃井さん」
「テツ君もいらっしゃ〜い」
桃井は、鞘が懐妊した時に赤司が鞘の為に用意した部屋子で、女人禁制となった今の大奥には珍しい女……ではなく、れっきとした男である。
しかし、桃井は素朴な良い子で、男なのに女の心情をよく理解出来る優秀な部屋子であった。
鞘は桃井とまだ短い付き合いであるにも関わらず、今では黒子の次に桃井のことを信頼している。
鞘は桃井にお茶の準備を頼むと、黒子と手を繋いだまま縁側に座り、そのまま黒子の膝の上に頭をのせた。
(……はぁ…正直、疲れた)
流石にあの赤司も妊婦の私を気遣って、最近は決裁の必要な仕事だけ回して、後は自由な時間を作ってくれている。
お腹の子は元気にお腹を蹴ってきて…この前、テツヤに抱き締められていた時には、嬉しそうに二回連続で蹴ってきた。
その振動はテツヤにも伝わったようで、彼は少し目を見開いた後、嬉しそうに顔を綻ばせると顔をお腹の子に近付けて話し掛けてきた。
鞘はそんな黒子の姿を見て嬉しくなって、その日は赤司に我が儘を言って、黒子と一緒にお腹の子と過ごした。
……そんな幸福な毎日を過ごしながら、鞘は早く我が子と対面したい気持ちを募らせ……
それと同時に、昔体験した流産の忌まわしく哀しい記憶も、日を追う毎に鞘の心を蝕んでいた。
突然、大奥に紛れ込んだ地方侍に犯され、身籠った鞘の子供は生まれてすぐに死んだ。
鞘は難産の激痛に苦しみもがきながら、二日間苦しみ続け……そして、子供を産むと、直ぐにそのまま疲労と睡魔に意識が飲み込まれてゆき……目を覚ました時には出産から三日が経っていた。
そして……鞘はしばしの間命を共にしていた子供の……初めての我が子の泣き声を聞くことは出来なかった。
その後、鞘は子供の亡骸は赤司が弔い、小さな墓を江戸城の片隅に作ったと聞いた。
……過ちによって産まれた子とはいえ、半分は将軍家の血を引く以上、赤司も無下には出来なかったのだろう。
鞘は、今でも時々、一人でその墓を訪ねる。
辺り一帯何もない土の上に、ポツンと置かれた形ばかりの墓。
我が子の眠る墓の筈なのに、鞘は何故かそこで一度も泣けたことがない。
(……もしかしたら、あそこに子供の亡骸など無いのかもしれない)
鞘の母を鞘の見ている前で殺して平然としていた赤司のことだ……そのくらいやりかねない。
鞘は縁側で黒子に頭を撫でられながら、そんな昔の忌まわしい記憶を思い出してしまったことに罪悪感を覚えた。
暖かい日差し、美しい空、色鮮やかな庭…
そして、愛する男の膝の上で、誰とも知らない男に犯され、産んだ子供の記憶を思い出すなど……赦されざる大罪だ。
そう思いながら……鞘は庭に向けていた顔を、黒子へと向きなおすと、下から彼の顔を見上げる。
「……鞘?」
「テツヤ……私の我が儘を……聞いてくれないか?」
「内容によります」
「……」
「冗談です……僕が鞘のお願いを断れる筈がないでしょう?」
そう言って、鞘の頬に手をあてて微笑む黒子に、鞘は自然と涙が溢れた。
彼は私に甘い。
私のためなら自分が傷つくようなことでも、迷わず実行しようとしてくれる。
我が儘な私を嗜(たしな)めながら……それでも私を突き放さない。
私は、そんな優しいテツヤを傷つけるとわかっていながら……その我が儘を彼へと口にした。
赤司が縁側から大奥の庭の一つに下りると、その庭の端で黒子が花を摘んでいる姿を見つけた。
「黒子…そこで何をしている?」
その問いかけに、黒子は振り替えることなく淡々と答えた。
「花を摘んでいるんです……赤司くんこそ、こんな庭の端まで何の用ですか?」
「……その花はどこに飾る気だ?」
「…赤司くんには関係ありません」
「いいや、そうはいかない。僕は大奥総取締役で、そこに住むお前には答える義務がある」
「………」
「答えろ黒子」
「……死んだ子供の墓に供える花です」
黒子は誰の子供とは言わなかったが、それを聞いた赤司は顔を忌々しげに歪めると吐き捨てるように言った。
「そうか、なら、その花は即刻捨てろ」
「……嫌です」
「黒子」
「鞘と約束しました。子供の墓参りを一緒にすると」
そう言いながら、黒子はなおも花を摘んでいく。
赤司は、背中を向けたまま花を摘み続ける黒子の手が微かに震えていることに気付いたが、構わずに残酷な言葉を口にした。
「あそこに子供の遺体は無い。ただの石ころに花を供えても無意味だ。むしろ、雑草が生えてくる。やめろ」
「……あの墓の回りが閑散なのは」
「毎日掃除させている…ゴミは必要ないからな」
「……そうですか」
珍しく感情を顕にした声で答える赤司の声を聞きながら、それでも黒子は花を摘み続けた。
〜小さな墓を様々な花が彩る〜
花を摘む黒子の脳裏には、泣きそうな顔で過去を告白した彼女の顔が全てを占めていた。