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□知らない方がいいこともある
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え?
二言目に出てきた言葉は「アリエナイ」だった。ぐしょぐしょに濡れたシーツの不快感で目を覚ましたのだから。
自分の身に起こったことを信じたくなくて、これはきっと悪夢だと言い聞かせる。しかし、目覚まし時計よりも騒々しいルームメイトの声が耳を劈いたことによって、嫌でも現実だと教えられた。憂鬱よりも最悪が勝る。こんな幼稚な失敗をするのは何年ぶりだろう。お酒を飲んだというわけでもないのに。

「おい! いつまで寝てんだクソDJ!」
「うるっさ……」

ジュニアの声がモロに響くので、仕方なく頭まで布団を被るとツンとしたアンモニアの匂いが鼻腔に届いた。傷付いた心が更にダメージを負う。
もし捲られたりでもしたら――。普段ジュニアをこども扱いしてはからかってしまうので、そんな自分が粗相をしたと知ったらやり返してくるだろう。こんな姿は誰にも、ジュニアになら尚のこと見られたくない。

「……具合でも悪いのか?」
「あー……うん……」

実際どこも不調はないけれどその方が都合がいい。あえて訂正せず、コンディションが優れないということにした。純粋なジュニアはそれを真に受けると、気遣うように声のトーンを下げる。

「メンターたちに報告してくるから、てめぇは大人しく寝てろよ。言っとくけど、おれがいないからってスマホいじるんじゃねーぞ」
「はいはい……」

保護者じゃないんだから、と言いたくなる気持ちをぐっと堪えて返事をした。あれこれ口出しするところは入所した頃と全く変わらない。
ジュニアの足音が遠ざかると、その隙に布団から顔を出した。無意識に呼吸を止めていたせいで、実は途中から苦しい思いをしていた。ジュニアが早々に立ち去っていなかったら、あのまま布団の中で窒息していたかもしれない。そうならずに済んでよかった。
いや、不快感は残ったままだから全然良くはないんだけれど。

布団の中にいるのにどんどん身体が冷えてきた。
まずい。覚醒しているからはっきりと尿意の存在を感じる。だけど、このタイミングでトイレに行けるはずもなく。

「どうせ濡れちゃってるしこのまま……って、いやいや、俺ってば何考えてるんだろ……」

我慢しても辛いだけだよ、なんて耳元で悪魔が囁く。ちょっとくらいなら、と思ってしまったのがいけなかった。肌にまとわりつく下着が一瞬だけ、熱く濡れる。そこで止められれば良かったのだが、出したい、楽になりたいという生理欲求に抗えなかった。そこからはもう一直線。形振り構うことなく、溜まっていた水分を本能のままに排出した。起きた時点で既に濡れていたとはいえ、見るに堪えないほど悲惨な状況を作ってしまった自分が恥ずかしい。
ああ、もう本当に嫌だ。いっそ消えてしまいたい。
ジュニアが戻ってくる。情けない顔を見られたくなくて顔を合わせないようにした。

「キースとディノに伝えてきた。具合が悪いからって」
「…………」
「…………マジで風邪ひく前にさっさと着替えろよな」
「え…………」
「……なんだよ?」
「……見たわけじゃないのになんで分かったの」
「あー……なんとなく? 勘……?」
「嘘つくの下手すぎじゃない?」
「……忘れてるなら、思い出さない方がいい」

意味ありげな言葉を残して、ジュニアはその場を立ち去った。気まずそうな声から察するに何かしらの理由が存在しているのは確かだと分かる。モヤモヤするけどこれ以上考えても仕方ない。とにかく今はシャワーを浴びなければ、とベッドから起き上がった。



『……助けるのが遅くなって悪かったな』
『おチビちゃ……』
『おれの大事な相手に傷つけたこと後悔させてやる!!』

断片的な会話。目の前に広がる閃光。
自分より小さいのに、やけに大きく見えた背中。抜け落ちていた記憶が徐々に蘇っていく。フラッシュバックから逃げるように、熱めのシャワーで念入りに身体を流した。


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