紅緋の章

□香雪
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 水面に映る月を、掴んだ。




「――――!」
 はっとして、目を開く。
 瞑想を解いた耳に、風の音が戻った。同時に残りの感覚も戻ってきて、少年の躯は真冬の水温に震えた。合掌していた手の内を開く。固く合わせていたはずのそこには、掴んだ月の白さに似た、小さな花弁が一枚、紛れ込んでいた。
 徴か。
 吉凶を判じようとしたそのとき、ひら、と頬の横を白いものがまたかすめた。間をおかず、三度。睫毛を震わせ、少年は頭上を見上げた。
 潔斎場の裏手の崖に張り出した枝は雪が積もっている。枝振りからすると梅のようだが、花が咲くにはまだ少しばかり時期が早い。
「頭領」
 呼ばれて、少年は返事をして水から上がった。潔斎とはいえ、この時期の水垢離は堪える。濡れた白衣を素早く脱ぎ捨て、乾いた布で水気を拭うと、幾分かぬくもりが戻ってきた。
 人心地ついたところで、少年は慎重に手を開いた。
 握りしめていた掌中に、しかし花弁は現れたときと同じように気配もなく消えていた。
「頭領、どうかしましたか」
「いや」
 少年は形の良いくちびるに笑みを含ませた。
 怪異か、どちらの神の戯れか。
「……ん?」
 身支度を整えるのに、鏡を手に取ると、ふと見慣れないものが面に映った。額に指を触れる。しかし、そこにはなめらかな皮膚の感触しかない。返す指先で、鏡の表面を拭い、角度を変えてみる。
 しばらくためすがめつした後、
「おい」
 少年は己の額を指さし、部下に向かって問いかけた。
「これ、見えるか?」
「は?」
 問われた部下は当惑顔で頭領の秀でた額を凝視し、首を傾げた。
「あの、これ、とは……?」
「見えないか?」
「はい……あの、頭領、一体…?」
「いや、もういい。気にするな」
 片手を挙げて止め、少年は再び鏡を覗き込んだ。
 赤い玉石のようなものが、眉間の少し上あたりに張り付いて見える。まるで御仏の白毫みたいだ。爆ぜた柘榴の実の粒にも似ているが、内側から燃えるような輝きがあった。これが紅玉なら、最高級の値をつけているところだ。
「いつまで眺めてるんですか。綺麗な面なのはわかってるんですから、いい加減鏡を離しちゃどうです。いくらなんでも見飽きるでしょう」
「俺の顔は、立派な商売道具なんだぜ。売り出し方を常に考えて置かなくちゃな」
 どうやら余人には見えないらしい。
 軽口を叩きつつ、少年は鏡を置き、身支度を整えた。短い上衣に、脚にぴったりとはりつく下裙。筒袖など町人のようだが、布地の広さの代わりに、裾には豪奢な金糸の刺繍、裏打ちは深紅の紅花染。帯飾りや剣帯にも精緻な装飾を施して、良くも悪くも目立つ風格だ。
 手入れされた二本のカタールを腰に吊すと、少年は音も立てない軽い足取りで歩き出した。
「宇治川の様子はどうだい?」
 京はいま、空っぽだ。
 暴虐を尽くした木曾義仲は、源氏に追われて宇治に下った。追捕の指揮を執っているのは、鎌倉殿の弟とかいうぽっと出の男だ。福原遷都に失敗した平家もまた、古巣への返り咲きを狙って不穏な動きをしているという。
「平家はまた怨霊を使う気なんだろう。斬っても突いても死なねぇ不死の軍勢相手じゃ、御曹司殿も形無しだな」
 鎌倉殿ご自身には、大層な異国の神がついているそうだが、その加護が御曹司にまであるかどうか。なんにせよ、ここで平家に敗北するような源氏であれば、京をおさえていられるのも僅かでしかない。
 平家には親父殿の恨みがあるが、さても護るべきはこの熊野。怨霊などを使っているのも気にくわないが、ひとつ繋ぎをとっておくか。
 そう思った矢先だった。
「いえ、それが、龍神の神子とやらが、怨霊を封じているとか」
 振り向いた少年の双眼が星のように瞬いた。
「龍神の神子? ……ああ、たしか源氏の軍奉行の妹御だったかな。大層な美人だってのに、龍に操立てして尼僧になっちまったそうじゃないか」
「いえ、尼僧ではないそうです。なんでも、宇治川に忽然と現れて、源氏の陣に加わり、次々と怨霊を封じているとか」
「へぇ」
 ゆっくりと顎を撫でながら、少年は忙しく頭を巡らせた。考え事をしているときに顎に手を当てるのは、父親から受け継いだ癖だ。潮風に灼かれた赤毛も、新しいことを求めていつも動いている瞳も、よく似ている。何より良く似ているのは、
「面白そうじゃん」
 大胆不敵なその笑みが、一番よく似ている。
「ちょっと様子を見てくるか」
 下町をぶらつくような気軽さで、少年は呟いた。



 それが、運命の始まりだった気づくのは、雪が解けたその後になる。





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