ゆったりとソファに座り、リモコンで操作する。 晴香が借りてきた2本のうち、先に見るのは例のポスターの映画だ。 八雲は確かにこの映画が好きだった。 見たのは大学受験の前だから、相当経っている。程よく内容を忘れているので、楽しめるだろう。 …まさか、彼女がこれを覚えているとは思わなかった。 大学の四年間、隠れ家にしていたあのプレハブの部室のドアに貼られていたポスター。かろうじてここが「映画研究同好会」であるのを示す、唯一のアイテムでもあった。 覚えていてくれて、嬉しかった。 彼女にとってもあの部屋が特別だったと言われたような気がした。 あの場所は、思い出深い場所。 あの場所で出会い、笑い、怒り、そして泣かれた。 彼女が来るのが当たり前になってから、不思議と部屋が違うように見えた事を、今でも覚えてる。 意味のない無機質な空間から、暖かく彩りのある場所へ。 模様替えなど一切していないというのに。 目を閉じて瞼に浮かんでくるのは、錆びかけのパイプ椅子、少しガタついた長机、そしてこの映画の…貼りっぱなしの古い映画のポスター。 部室という場所には不釣り合いの冷蔵庫の中に、勝手に入れられたチョコレートやお茶の数々。 人の部屋に私物を入れるなと何度言ってもけろりと笑って持ち込んでくる彼女に呆れながら、その遠慮の無さが逆に少し嬉しかった。 あの頃にはもう戻れないけれど、あの部屋の記憶は心の奥底に大事に鍵を掛けて仕舞ってある。 晴香が数種類のアルコールを持って来て座ったのを確認してから、部屋の照明を間接照明だけに切り替えて映画を見やすくした。 「お待たせ!何飲む?」 「何でもいい。」 「うーん、それ一番困る」 晴香が苦笑いをする。 乱入者がよく持って来るので、この家には缶ビールやら缶チューハイ、その他諸々が転がっている。 飲み切る前にまた誰かが持ってくるので、場所代としてありがたく貰っておく事にした。 「はい、どうぞ。ジントニックでいいよね?まあ文句は受け付けないけど」 「ああ」 プルトップを開け、晴香がうるさく騒ぐので形ばかりの乾杯をする。2人とも缶なので、べこんという何とも色気のない音が出た。 「毎回毎回、なんでいちいちこれやるんだ?」 「いちいち…って、お酒飲むときはやっぱ乾杯でしょ」 「何に対しての乾杯なんだか」 「お疲れ様でいいじゃない。あ、ほら本編始まった」 「いいじゃないって…元はと言えば君が、」 「いいからいいから、はい、映画見ーるー」 小さな両手で頭を挟まれ、無理矢理テレビ画面に向かされる。 「うふふ、たまにはこういうのもいいね」 身体が触れ合う程近くに座る彼女に苦笑いをして、八雲は晴香の勧めるまま映画に集中する事にした。 映画は、詐欺師の話だ。 いつものように仲間と組んで簡単な詐欺で引っ掛けた相手の金が、運悪くある組織のものだったところからこの物語は始まる。 組織のボスは怒り、足を洗って再出発しようとしていた師でもある大事な仲間を殺され、男は報復を決意して伝説の詐欺師のところに協力を求める。 悪徳警察官やFBIも出張り、殺し屋には狙われ、仕掛けに次ぐ仕掛けで見る者を飽きさせない。 暫く集中していたが何かの拍子にふと隣を見てみると、大きな瞳をさらにまん丸くして晴香が魅入っている。缶の飲み口に柔らかそうなさくら色の唇を押し当てて、時折それを傾けるだけの仕草を繰り返している。 八雲は、見るのに夢中になり過ぎて食べる事を忘れている晴香の手から、そっと缶を取り上げた。 一瞬遅れて晴香の目線がそれを追う。 「ふぇ?何?」 「飲んでばっかりいないでちゃんと食え」 「え?食べ…、あ。そうだね、そうだよね。忘れてた」 えへ、と照れたように笑うその顔は既にほんのりと薔薇色に染まっている。八雲は呆れて、手近にある皿を晴香に押し付けた。 「君は人に煩く注意するが自分は全然駄目だな」 いつもは自分から空きっ腹にアルコールはよくないだとか、お風呂は飲む前に済ませないと危ないだとか煩く言ってくるくせに。 「違うよ!今回は、ちょっと映画に集中しちゃって…だってこれ、面白いんだもん、しょうがないでしょ」 反抗期の幼児のような物言いに加え、唇を尖らせて言い訳する仕草が何とも言えず愛らしい。 二十歳を過ぎた歴とした女性にそんなふうに感じる事自体可笑しいと思うのだが、こと晴香に対してはどうも感覚がずれてしまうようだ。 「面白いなんて文句言う奴は君ぐらいのものだな」 「文句じゃないもん理由を言ってるんだもん」 「いいから酒飲むならちゃんと食え。気分が悪くなっても知らないぞ」 「気分が悪くなったら私をトイレに放り込んで、自分はさっさと寝ちゃいそうだよねぇ八雲君って。『自業自得だ』とか言って」 ごつん、と肩口に頭突きをくらう。 「当たり前だ。放置だ放置」 「はくじょーもの」 「薄情で結構。わかったら食って、黙って映画見てろ」 「はあい」 晴香は返事をして、大人しくフォークを口に運ぶ。だが数口ですぐに皿を戻すと、柔らかくて甘い匂いのする身体をこてんと八雲の左腕に寄りかからせる。 お互い心地よくアルコールが回り始めているせいか、そこに変な構えはなく、自然に寄り添いあった。 八雲は口だけで全くもって世話の焼ける奴だと文句を言いながら、手元の缶を煽った。 2本目の映画は、恋愛映画だった。 正直苦手な分野だし、そしてこの世で一番これを一緒に見たくない相手が隣にいる。 いや、一番は後藤か。 あんなむさ苦しいのと恋愛物を見るなんて、想像しただけでも気持ちが悪くなりそうだ。ありがたい事にそんな機会はなさそうだが。 可愛い女の子…例えば好意を寄せている相手ならいいかと言えば、そういうわけではない。 寧ろ隣を妙に意識してしまって、居心地悪い事この上ない。今の状態がまさしくそれだった。 映画の内容は八雲からすれば「あり得ない」の連続だったし、顔を覆いたくなる程コテコテのラブロマンスだった。 けれど、血縁者が殆どいない境遇の、恋愛に臆病な主人公。 コンプレックスが強く、「果たして自分は幸福を追求する権利があるのか」と躊躇する姿にほんの少し、自分を見てしまう。 …馬鹿馬鹿しい、なにを考えてるんだ僕は。 酔っているせいだと自分に言い聞かせて、画面に再度集中力しようとする。 主人公は中々自身の負の感情を克服できず、それが原因で恋人達は別れてしまう。 だが、最後はひたむきに主人公を愛する恋人の頑張りもあって、ハッピーエンドになった。 八雲はクレジットが流れ始めるのを見て、ほっと一息ついた。 ゆっくりと身体の力を抜き、ついでにほんの僅かに晴香から離れた。 やはり恋愛映画は…疲れる。隣で黙り込み、ホロリとひと雫涙をこぼしている酔っ払いが一緒だと特に。 「別に泣くような映画じゃないだろ」 ぶっきら棒に言い放つと、晴香は困ったように首を傾げて微笑んだ。 「そうだけど…そうなんだけど、いいなあって…羨ましくて、つい」 晴香は頬を滑り落ちた涙を指先で拭うと、ぽふっとまた寄りかかってきた。 「…重い」 「もう、うるさいな。我慢して」 「何で僕が我慢しなきゃならないんだ。どけ」 「八雲君の意地悪ー」 ぷくりと、晴香は膨れた。すぐにそれは萎んで、心許なさそうな顔になる。 よくもまあ、こんなにころころと表情を変えられるものだ。 「…あのね、少し頭がフラフラするの。治まるまでこうさせてくれない?」 「飲み過ぎたからだろ。…仕方ないな、5分だけだぞ」 「うん。ありがと」 渋々といった体で了承すると、晴香はホッとしたように口元に薄く笑みを浮かべる。そして小さな声でお礼を言うと、目を閉じてすり寄ってきた。 前項へ / 次項へ |