独りの夜は、長くて退屈で、そして孤独だった。 同居する前の4年間、ずっと一人着らしをしていたから慣れているはずなのに、何時の間にか淋しん坊になってしまったらしい。 否、違う。 私はある意味、ずっと独りだった。 双子の姉を亡くし、その死を自分のせいだと責め続け、周りに『綾香ではなくお前が死ねば良かったのに』と思われるのが怖くて『良い子』を演じ努力し続けた、13年間。 八雲に出会って、長い呪縛から解放されて…彼のおかげで硝子の部屋から出て漸く本当の自分に戻れた。漸く、直に他人と触れ合う事が出来た。 彼といると、一人じゃないと、ありのままの自分を受け入れてくれてると感じる事が出来た。 でも、だから彼が好きなのかと問われれば、答えは『No』。 彼の強さに、孤独に、弱さに、そして優しさに、気がついたら惹かれていた。傍に居たくてプレハブの隠れ家に通い、近づきたくて、理解したくて支えたくてその背中を必死に追いかけた。 追いつけないまま時は過ぎ、卒業したらこのまま離れてしまうのかと涙を零した夜もあったけど、奈緒の何気ないひと言と周囲のごり押しもあって、こうして今一緒に暮らしている。 幸せだと思った。 恋人じゃなくても、彼の傍に、一番近くに居られるだけで幸せだと思った。 その、筈なのに。 何時の間にか傍にいるだけじゃ、物足りなくなってて。 友達のままじゃ、切なくて。 触れ合えば抱き締めて欲しくて。 きつくきつく、抱き締めて欲しくて。 そう。あさましい程切実に、泣きたくなる程痛烈に、私は彼を求めてる。 独りの夜に、それを嫌という程思い知らされた。 あの、会えなかった長い一週間は不安で、淋しくて、そしてひたすら恋しくて…。 インターホンの音が聞こえた瞬間、考えるよりも先に脚が駆け出していた。 言葉が頭を巡る余裕もなく伸ばした指先が彼に触れて、その細いけれど大きな身体にただ夢中でしがみついた。 …あれを境に、私は八雲に自分からまとわりつくようになった。 あの日…彼等が帰って来た日。 予想外に後藤さんが居て、恥ずかしさと驚きですぐに八雲から離れてしまったけれど、本当は離れたくなんかなかった。 私の身体を支える胸が、髪を撫でる指先がそれを許してくれていたし、寂しさを埋めるように心ゆくまで彼の体温を感じていたかった。 結局、後藤さんとのおしゃべりとか八雲が向こうで告白された話とかで、伝えたかった事や触れたかった事が何だか有耶無耶になってしまい、私の欲求だけが宙ぶらりんで不完全燃焼のまま、再会が終わってしまった。 そのせいもあってか、恋心に妙にくっつきたい欲求が重なって、私は折に触れて彼の傍に寄っていくようになった。 何処まで許されているのかわからなくて怖かったし、勿論恥ずかしい気持ちもあったけれど、八雲は私の好きなようにさせてくれていた。 「何だよ」と戸惑いがちに問われても、「淋しい」と答えればそれで終わり。 拒絶するわけでもなく、かと言って積極的に腕を回してくれるわけでもなく。 時折、肩に手を置いたり髪を撫でたりする程度だったけれど、それでも確かに、『受け入れられている』『許されている』と感じる事が出来た。 壁の向こうには辿り着けないけれど、今はそれで十分だった。 好き。 あなたが、誰よりも好き。 世界で一番、好き。大好き。 触れるたび、抱きつく度に想いの丈を込めて優しい赤い瞳を見上げる。 いつかあなたに届きますようにと、祈りながら。 「ねえ、今週はどうする?」 平日の夜、食後の片付けも終えた晴香は、ソファに座ってアームレストに頬杖をついて寛ぐ八雲にそう言った。 「今週って?」 彼は読みかけの本を膝の上に置くと、にこにこと微笑む晴香を胡散臭そうに見上げ、わざと興味なさそうに聞き返してきた。これから言われる事を予測して、そしてそれを無視してしまいたいのがありありとわかる態度だ。 でも、勿論そんなことは気にしない。 「恒例のぷち飲み会♪今週って言うか、もう明日だね」 すとんと八雲の隣に座り込む。 八雲をお酒に慣らす為に始めたささやかな飲み会は現在2週間に一度の割合で行われているが、残念ながら彼自身は大して乗り気じゃないようだ。 その理由を晴香は知っているから笑うしか無いのだけれど、部屋に逃げ込まずおとなしくリビングにいるところを見ると、まあ許容範囲内なのだろう。 八雲が乗り気じゃない理由は、飲み会そのものにはない。 じゃあ何かというと、乱入者が矢鱈にやってくる、それが理由。 誘ったわけじゃない。わざわざ告知してるわけでも無い。それでもいきなりインターホンを鳴らしてやってくるのだ。ご丁寧に手土産を掲げて。 畠などは夜更けに訪ねてきたかと思うとアルコールを摂取した八雲に近づき、左眼の瞳孔と脈拍を調べただけで帰っていくのだから意味がわからない。 その他にも敦子と喧嘩して放り出されたという後藤や、仕事でパワーハラスメントにあったと悔しがる真琴が(大体これには石井がついてくる)今までに乱入してきた。 その度に晴香は呆れ顔の八雲を諌めて、彼等の為に食事を作ったり飲みものをだしたりと、せっせと立ち働く。 そして、晴香は八雲がそれを嫌がるのを知っていた。 …八雲君は、なんのかんの言って優しいんだよね。 卒業後働き始めてから若干痩せた晴香を心配してくれているのだ。土日も家事に勤しもうとする晴香にゆっくり休めとこれ以上無いほどの仏頂面で言い、色々と手伝ってくれる。 だから、晴香に負担になるような来客は避けたいのだろう。 別に平気だよと言っても納得しているんだかいないんだか、ちらりと一瞥だけして無言で去っていってしまう。 でも、確かにたまには誰にも邪魔されずに、2人で映画でも見ながらゆっくり飲みたいな。 そう思い、今日の仕事帰り、レンタルショップに寄ってきた。 「お酒飲みながら、これ見よう?」 晴香はソファの向こうに置いといた鞄を手に取り中身を取り出す。そして八雲にDVDのパッケージを差し出すと、彼は頬杖を外して晴香の手元を覗き込んだ。 「これは…懐かしいな」 ふっと八雲が表情を緩める。 書かれているタイトルに見覚えがあったのだろう。 晴香には八雲がどんな映画を見るかなんて、全然わからなかった。 学生課を騙して部屋を借りる時、『映画研究同好会』なんて名前にするくらいだから鑑賞が嫌いでは無いだろうが、イメージなのか何なのか、映画そっちのけで寝てる彼の姿しか想像出来なかった。 恋愛映画なんて見ないだろうし、最近流行りの邦画を見るとも思えなくて、晴香は大量のDVDが詰め込まれた棚の前で暫し途方に暮れた。 …そんな時、頭を過ぎったのは映画のポスター。 懐かしいあの部屋の、誰かさんがドアスコープだと言って譲らなかった拳大の穴を誤魔化すように貼られた、あの映画のポスター。 忘れるはず、なかった。 だってあの場所は、全ての始まりだったから。 晴香は店内に設置されている検索機の前に走り寄ると、ありますようにと祈りながらタッチパネルを操作した。 「ポスター貼ってたから、好きなのかと思って」 「…覚えてたのか?」 「あのドアスコープには騙されたからね、よっく覚えてます」 「それにしたって、タイトルまでよく覚えてたな。君の頭にしちゃ上出来だ」 「もう、八雲君はいつも一言多いの!これくらい、覚えてるよ」 八雲は指先でパッケージをひょいとつまみ上げ、ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った。 好きな人に関する事だもん、記憶してるの当たり前じゃない…とは勿論言えず、晴香はだって有名な映画だからねと笑って見せた。 「明日、これ見ながら一緒にお酒飲もうね」 「また誰か来るんじゃないか?」 「そしたら、お喋り厳禁でその人も一緒にDVD見て貰う。あとは、食べるのも飲むのもセルフで!今週はのんびりまったりがテーマです」 晴香の元気の良い答えに、彼はそうかと満足そうに頷いた。 ************ 定時になった。 いつもなら、その時間を気にしたりはしない。 何故なら定時ピッタリに帰る事なんか殆ど無いからだ。 でも、金曜日…二週間に一度の週末は違う。 今日は用事があるので、と隔週定期的に周りに言っていれば、それが年頃の女性という事もあって、恋人との約束だろうと勝手に周りが誤解をしてくれる。 たかだか二週に一度、加えて日頃真面目に頑張って働いている晴香に、周囲の目は暖かかった。 「お疲れ様、仲良くね!」 「小沢先生、恋人ってほん…」 「平山先生!晴香先生、いいから早く帰りなさいな。急ぐんでしょ?」 「え?あ、はい…?お先に、 失礼します」 快く送り出され声を掛けられ、頭にはてなマークを飛ばしながらも急いで家路を辿る。 それはいつもより早い時間。 太陽の顔を帰り道に拝めるなんて少し得した気分だと、晴香は柔らかい微笑みを浮かべた。 暫しそのままゆっくり漕いでいたが、ふと、自分が早く帰る理由を思い出して慌てる。 のんびりと季節の香りを堪能したかったけれどと残念がりながら、晴香は気持ちを切り替えて自転車のペダルに乗せた脚に力を入れた。 八雲が帰って来るまでに、食べ物飲み物、お風呂の仕度、全て済ませておきたかった。 お酒の味は相変わらず好きとは言えないみたいだが、それでも当初の話通り慣れる為にそれなりに口にする。それにどうやら、晴香がささっと作る酒の肴が口にあったらしく、酒盛りについて以前程文句を言わなくなった。 まあ、美味しいなんて褒めてくれた事、無いけどね。 彼は気に入るとそればっかり食べて、あっという間に器を空にするのだ。洞察力なんて無くてもすぐわかる。 八雲君、子供っぽいところあるんだよね。 晴香は端正な仏頂面を思い浮かべて、心地よい風を顔に受けながらくすくすと笑った。 一人着らしと違って、誰かの為に作るというのは自然と気合が入る。それが好きな人なら尚更。 鼻歌を歌いつつも手早く動き、次から次へとテーブルにお皿が並べられる。調理器具の片付けも自身の風呂も済んだ頃、八雲が帰って来た。 「おかえり!お風呂沸いてるよ」 まだ外の空気をまとう八雲にそっと身体を寄せて、にっこり微笑みかける。 毎日、彼におかえりを言うこの瞬間が晴香は好きだった。 暮らし始めた頃、嬉し恥ずかしの晴香と違ってひたすら照れ臭いだけの八雲は、『ただいま』を物凄く小さな声で言うだけですぐに部屋に行ってしまったものだ。 それを『聞こえない!』だの言って引き留め続け、その結果今ではもう当たり前に挨拶を交わし、その後も一緒に過ごしている。 『おかえりなさい!』 『…ただいま』 『ただいま〜♪』 『おかえり』 そんな、日々繰り返し、繰り返される些細な言葉のやり取り。 他愛ないたった一言に、どれだけの気持ちが込められているか、きっと八雲は知らないだろう。 無事に帰ってきてくれて、嬉しい。 早く帰ってきてくれて、嬉しい。 帰ってくる私を迎えてくれて、嬉しい。 貴方がいつも私の元に帰ってきてくれて、嬉しい。 …このままずっと、彼の帰る場所に、なりたい。 固い胸に額を当てるように俯くと、八雲の節くれ立った大きな手のひらが躊躇いがちに髪を撫でた。 「…どうした?映画、見るんだろ?」 「う、うん、2本借りてきたの。もう支度は出来てるから、八雲君お風呂入ってきて」 一歩下がり、表情を誤魔化すように片手で自分の頬をごし、と擦る。 いけない。一瞬、ほんの一瞬だけ、思考が暗くなってしまった。 折角二人で(誰か来るかもしれないけど)お酒を飲んで映画を見るんだから、楽しい顔だけ見せていたい。 片想いの苦しさなんて、独りの時にだけ感じてれば十分。 一緒にいる時は、笑っていたい。他でもない、自分の為に。 …そして、八雲の為に。 晴香はすぅ、と深く息を吸って、ゆっくり吐き出した。 …よし。大丈夫、切り変わった。 最近気を抜くと暗くなりがちだ。長い片想いも、もしかしたらそろそろ限界なのかもしれない。 でも、ダメ。 限界だろうが何だろうが、今はまだ堪えなくちゃ。少しずつ、確実に彼の壁を崩すんだから。頑張るって、そう決めたんだから。 ぱちんと両手で頬を叩いて、晴香はキッチンに脚を運んだ。 八雲が入浴してる間に、冷蔵庫で冷やしておいたものを出したり、温めたりと用意を進める。 大丈夫大丈夫。弱くなんて、なっちゃダメ。なってられない。 鼻歌を歌いながらレンジの周りをくるくると立ち回っていると、早くも八雲が浴室から出てきた。 黒のTシャツに黒のスウェット、首にタオルを引っ掛けている。 いつもことだけれど、早い。たまにのんびりお風呂に入って中々出てこない事があるが、基本的に八雲はカラスの行水だ。 「何だ、それ」 八雲が晴香が持っている皿を覗き込む。ふわりと漂う石鹸の香りに、心臓が大きく跳ね上がった。 ううう、ち、近い。それに、良い匂い…。 自分から身を寄せるのは平気なのだが、八雲からこられるとドキドキしてしまう。 加えて濡れていつもより大人しくなった艶やかな髪、そこからのぞく赤い左眼や白い肌が色っぽくて、晴香は頬を染めた。 前項へ / 次項へ |