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 晴香の後からリビングに入り、疲れた体をソファに投げ出すようにして座る。目を閉じて背もたれに頭を預け、深く長く息を吐いて身体の力を抜いた。
 そのままの状態で暫くいるとかたりという音がして、それからすぐ隣に誰かが…晴香が座る気配がした。
 スリーシーターのソファだが、晴香は必ず真ん中…八雲の隣に座るのだ。八雲はそっと目を開けて晴香を見た。

 先程の音はトレーをテーブルに置いた音だったらしい。晴香は細い指先でコースターを2枚敷き、その上に冷たいお茶の入ったグラスを八雲と自分の前にそれぞれ置いていた。


 こちらを向いていないのを良い事に、じっとその様子を観察する。


 繊細な横顔、細い首筋。
 頬に影を落とす長い睫毛に縁取られた、暖かい大きな瞳にじっと見上げられると、あちこちが疼く感じがしていつも落ち着かなくなる。

 身体が触れ合う程の距離に座るのは慣れている筈だが、今日はやけに落ち着かなかった。

 いつもの事なのに。いつもこうして傍にいるのに。
 いつも気がつくと隣にいて、手を伸ばせば捕まえるのが容易い距離に彼女はいる。

 でも2人の間に横たわる、見えない壁は余りにも高くて。

 張り巡らせているのは他でもない自分だというのに、それを忌々しく感じるなんてどうかしてる。
 きっと今日は、疲れているんだ。そうに違いない。大丈夫だ…明日になれば、元どおりになる。









 本当に?








 もう一度、目を閉じて瞼を手のひらで覆う。

 残像の様に目蓋に残るその優しい姿を見つめ、八雲は煩悶した。




 わかってる。
 彼女は僕といたら幸せにはなれない。
 僕は何も与えてやれない。彼女が夢描いているだろうものは、何一つ。
 わかっているからこそ、自分の気持ちを見て見ぬ振りをしてきた。
 決して求めないように。欲しがらないように。
 それなのに、一瞬の抱擁で強い…あまりにも強い自身の感情を思い知らされてしまった。
 思い知ったところで、どうしようもないけれど。



 心の中で自身を嘲笑う八雲の腕に、柔らかい手のひらが触れて、心配そうな声がかけられた。

「八雲君?大丈夫?勝手にお茶淹れたんだけど、飲む?」

 ゆっくりとソファの背もたれから頭を持ち上げて、すぐそばにある愛らしい顔を見つめる。
 無言でその瞳に見入っていると、晴香の頬がぽっと桜色に染まり、彼女は狼狽えたように身体をもじもじさせた。

「な、なに?」

「…いや、別に。普通は訊いてから淹れるモンだろうに、相変わらずだなと思って」

 鼻先で笑って言ってやると、すぐにぷっと膨れる。

「いーいーの!要らなかったら私が飲むもん」

「夜中にトイレ行きたくなっても知らないぞ」

「どれだけ子供扱い!?そういう事ばっかり言う八雲君にはもうあげない!」

 そう言って、八雲のグラスを奪い抱えて、幼さ全開でいーだと歯を剥き出して来る。
 まったく、幾つなんだこいつは。
 呆れた八雲は晴香の手からあっさりそれを取り戻すと、ぶーぶー文句を垂れる彼女を尻目にグラスをゆっくり傾けた。





「それで…」


 晴香は「飲みたかったくせに素直じゃない」と苦笑していたが、八雲が無視してお茶を飲んでいるのを見て、肩を竦めて話を変えようとした。
 一度迷うように言葉を区切り、一口だけお茶を含んで口を湿らす。


「それで、その女の子には…なんて返事したの?」


 不安そうな声音に思わず手を止めて晴香の方を見る。
 彼女は両手でグラスを握りしめて、前方に顔を向けたまま視線を膝に落としていた。

 八雲は残りを一気に飲み干すと、テーブルの上に空になったグラスを置いた。
 
「君には―――」
「関係無いって言ったら怒る」

 晴香は八雲の言葉を遮るとパッと此方を向いて、幾分ふくれっ面をして八雲ににじり寄る。 ソファの隅に座っている八雲は、アームレストと晴香に挟まれる形になった。
 
「でも、関係ないだろ?」
 
 八雲にとってはもう終わった話で、今更話す事は何もない。自分は断って帰ってきて今ここにいるのだし、誰にとってももう関係ある話題では無いと思った。
 しかし晴香は八雲の言葉にいきりたった。
 
「関係ないって、そんな言い方ないでしょ?
 もう〜〜!八雲君はいっっつもそうやって周りに壁作るんだから!
 一緒に暮らしてるんだから、関係ないとかそういう冷たいこと言うのやめてよ。言いたくないとかならわかるけど、関係ないって言われちゃうとすごく切り離された気持ちになる」
 
「…そうか」

 少し反省してみる。
 
「別に…聞かれたくないならそう言ってくれれば無理に聞こうとかしないし。鍵なんてかけなくても勝手に部屋に入ったりしないし」
 
「そうか…って鍵?」
 
「兎に角ね、なんかそう身構えられちゃうと淋しいんだよ…って何?」
 
「鍵ってなんだ?」
 
 眉を顰めて聞くと、晴香はきょとんとして首を傾げた。言ってる事がよくわからない、そんな雰囲気だった。

「えっと、だから、八雲君がお部屋に鍵を掛けてる件について…?」
 
「部屋に鍵を掛けてるのは君だろ?」

「え?掛けてないよ?あ、そう言えば私八雲君の部屋の鍵…多分スペアだと思うけど、落ちたのを拾ってまだ持ってる。ちょっと待ってて」



 何だって?



 自室にその鍵を取りに行こうと立ち上がった晴香の手首を、咄嗟に掴む。

「掛けてないってどういう事だ?普通は掛けるだろ?」

「戸締りはちゃんとしてるよ?玄関はオートロックだし…」

「そうじゃなくて!普通、夫婦でも恋人でもましてや家族でもない男と一緒に暮らしてたら、部屋の鍵くらい掛けるだろ!?」

「あ、そういう事」

「Wそういう事Wじゃない…もっと危機意識を持ってくれ…」

 けろりとした晴香の態度に脱力感に見舞われ、がっくりと項垂れて深く溜息を吐いた。
 一緒に暮らしている男が自分に情欲を抱いているとこれっぽちも思っていないのだろう。その信頼を喜ぶべきなのか、男と意識されていない事を哀しむべきか。


「でもほら…八雲君だから」

「どういう意味だよ」

「え?その、何が起きても…いや起きないけど…でもそうなったら…しいような…?」

 晴香は下を向いて口の中でモゴモゴと言葉を濁していた。心なしか顔が赤い。

「何をごちゃごちゃ言っているんだ?兎に角今日から寝室には鍵を掛けろ。わかったな?」

 そうでないと、色々…辛い気がする。
 祈りにも似た気持ちでそう言うと、晴香は少し嫌そうに顔を顰め、さっきまでとは打って変わってはっきりと答えた。

「嫌だよ」

「いいから掛けろ」

「私は掛けたくない。このマンション防犯はきっちりしてるから問題無いし、同居人は八雲君だし、必要ないでしょう?」

 どういう意味だと再び思ったが、それはこの際無視をしてひたすら掛けろとうるさく言うと、何故だと反論されてしまった。
 それとも、と晴香は少し緊張した面持ちで、言葉に詰まった八雲の瞳を覗き込む。



「何か、私に鍵を掛けてて欲しい理由でもあるの…?」



 真剣な、少し責めるように見つめられて八雲はついと視線を外す。説得の方法は見つからないし、その質問には答えたくなかったからだ。




 答えを待つ晴香と、答えたくない八雲の間に沈黙が降りる。




 結局、それ以上施錠を強制することも出来ず、八雲が自制を放棄した時、物理的な障害が無いことが明らかになっただけだった。









 我慢比べのように口を噤んだ二人だったが、やがて諦めたように晴香が話題を変えた。微かな溜息と共に。


「関係ないってところから、大幅にずれちゃったね」

「何の話してたか忘れた」

「残念でした!私はちゃあんと覚えてます!私には聞く権利があるもん」

 頬を膨らませて主張を繰り返す晴香に、ささやかな疑問を感じてぶつけてみる。

「…何故?」

「えっ?」

「別に否定するわけじゃないが、何故聞く権利があると?」

 あるかないかと言われれば勿論あるのだが、それにしてもこの話題に喰いついてきすぎだと感じるのは気のせいだろうか?
 八雲に問われた晴香は一瞬固まった後、少し不自然な程一生懸命言葉を探し始めた。

「えっと、それは、その〜…、あ!ほら!もし八雲君がその子とうまくいって、向こうで民宿の仕事するようになったらこの部屋どうするのかなとか新しい同居人探さなきゃとか色々あるし!」
 
「…成程、ね」
 
 そう言われてみれば一理ある気はする。
 
「確かに君の場合、聞きかじった状態よりきちんと聞いておいた方が良いが…元々あの熊がこんな話を持ち出さなければ、わざわざ話をする必要もなかったんだ。…僕は断ったんだから」
 
 
 今更きちんと答えるのが照れ臭くてさりげなく結果を伝えると、晴香が一瞬息を飲み、それから肩がかくんと下がった。
 
「そっか…断ったんだ…」

 自分が聞いてきたくせに、気の抜けたような妙な顔をしている。変な顔をしてるぞと親切に教えてやると、いつも通りムキになって怒ってきた。

「変な顔って…もう少し言い様があるでしょうが!」

「君に関しては無いな」

「もう!感じ悪い!」 
 
 どしんと八雲に肩をぶつけ、そのままずるずると寄りかかる晴香に重いと文句を言う。彼女は軽く謝ると口元に微かに笑みを浮かべ、八雲の瞳を真っ直ぐに見上げた。



「じゃあ、…今まで通り?」



 曖昧なボーダーラインの、2人の関係。
 何処から何処までが『今まで』と『同じ』なのか、最早お互い分からなくなっていた。




「そうだな…」




 八雲は背もたれに両肘をかけて天井を仰いで、答えた。











「今まで通り、だ」










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